過去のオピニオン・エッセイ
オピニオン
人類が人工的な装置で初めて空を飛んだのは1783年、フランスの熱気球「レヴェイヨン気球」(Aérostat Réveillon)によるものとされる。1789年に始まったフランス革命は、欧州各国の介入を招き、それ故に始まったフランス革命戦争で、オーストリアが攻め込んだフランス北部モブージュでの戦い(1793年)で、フランス軍側は気球を使い、オーストリア軍とオランダ軍の動きを空から見張り、味方地上部隊に敵軍の位置を知らせた。この気球に依る監視を妨害するため、オーストリア軍は、2門の17ポンド榴弾砲を用いて気球を狙い、気球のゴンドラを掠めたものの、命中は逃した。しかし、この2門の17ポンド砲が「史上初の対空砲」と言われる。
標的である気球の運用も進化する。
1862年3月までには、南北戦争最中の北軍で「米陸軍気球軍団(U.S.ArmyBalloon Corps )」も編成され、馬車による移動式の水素発生装置も作られたが、1863年に同軍団は、南北戦争の終結(1865年)を待たずに解隊されている。
1870年の普仏戦争、その後の軍用気球の発達は目覚ましい。第一次大戦に先立ち、地球上のさまざまな紛争で気球部隊がみられた。
だが、気球や飛行船による偵察・監視は、固定翼機の登場によってその役割をとって代わられた。それが、2023年になって、米本土の偵察・監視に軍事気球(または飛行船)が中国によって使用されていたと米国が主張し、F―22A戦闘機によって撃墜されるに至ったのであるから、一挙に世界中の耳目を集めた。
軍事偵察・監視気球(または、飛行船)が“復活”したのなら、軍事気球(飛行船)の歴史も繰り返すのだろうか。
振り返ってみれば、1899年のハーグ陸戦条約( 25か国署名)において、当時の主要国は、5年間、気球や他の“飛翔体”からの爆撃禁止に合意した。逆に言えば、戦術としての気球からの爆撃を各国とも予想していたということなのだろう。
気球、その他に依る爆撃禁止条項は、1907年の「Declaration (XIV) Prohibiting the Discharge of Projectiles and Explosives from Balloons. The Hague,18 October 1907」においては、禁止される爆撃対象が限定され、「防御されていない町、村、住居、建物に対するいかなる攻撃や爆撃」も禁止対象であり、戦争行為に必要な施設や設備は合法的に攻撃できると解釈できるようになった。動力飛行船は、20年前後の実験等を経て、1900年頃、実用化した。
フェルディナンド・フォン・ツェッペリンの動力飛行船は、ドイツ帝国に、長大な距離を飛行し、相当な重量の爆弾を運ぶことができるという優位性を示したのである。
1914年、ツエッペリン飛行船が英国の海岸を偵察しているのが見つかった。戦争初期の数か月、陸軍が引き継ぐまで、英海軍が本国防空の任務を付与された。このため、英海軍予備役志願兵は、海軍対航空機軍団に配属され、対空火器、サーチライト、監視所に「特別治安公務員」として配属された。
1915年1月の夜、ドイツはツエッペリン飛行船による英国への爆撃を開始。5月31日には、ロンドンへの爆撃も始まった。この時、防衛に投入できたのは、12門の対空砲と12基のサーチライトだけだった。最初のロンドン爆撃で、ツエッペリン飛行船には損失は無く、ポンポン対空機銃の弾は、ツエッペリンの高度に届かず、地上に落ち、市民に被害を出したため、ロンドンから撤去された。
飛行船との戦いは、戦略的なものだった。第1に、防空は集中を必要とした。飛行船目撃の情報と報告の分析が、英海軍オフィスで集中的に行われた。第2には、砲員、サーチライトと迎撃機が待機態勢を取ることができるように、防御側は間近に迫った攻撃の警告を必要とした。通信傍受ステーションは、ドイツ軍飛行船基地からの不注意な通信をモニター、それによって、時々、海軍本部の暗号の専門家はどんなターゲットが攻撃されることになるか、そして、どんな飛行船が攻撃を行うか確認することが出来るようになった。新たに設けられた電話のネットワークが、警戒情報を伝達する仕組みとして働いた。戦争初期、沿岸の対空火器は、最初の防御ラインとして機能した。戦争後半になると、前哨艦艇の対空砲火も防御に加わった。ツエッペリン飛行船が河川、鉄道、市街を目印に飛行していることが分かると、対空砲部隊は、これら目印になりそうな場所に展開した。
迎撃機は、ツエッペリン飛行船が接近してくる孤に拠点を置いた。迎撃機は、敵を見つけて、追跡し、迎撃することが出来たので、防御戦略に不可欠だった。だが、1915年、ツエッペリン飛行船は、夜の闇を活用し、当時の航空機より高く飛ぶことで優位性を確保した。初期のツエッペリン飛行船でさえ、高度3350mを超えることが出来たのである。英軍の迎撃機BE2c型機は、ツエッペリンの高度に到達するのに45分掛かり、飛行時間2時間という限界があった。闇の中でツエッペリン飛行船を見つけ出すのは難しく、迎撃機は、サーチライトがツエッペリンを照らし出すまで待たねばならなかった。
気球・飛行船が、迎撃機に容易に到達できない高度を飛行し、偵察・監視のみならず、爆撃も行ったという歴史は、現代においても踏まえておくべきことなのかもしれない。
一方、第一次戦前に起きた対空戦装備の大きな変化は、サーチライトと音響探知装置だった。敵飛行船の夜間飛行が、沿岸砲部隊の脅威となるにつれ、サーチライトは敵飛行船に対しても使用されるようになっ
た。第一次世界大戦が始まった1914年、ドイツは分解、輸送可能なサーチライトを実用化。戦争の進行につれ、音響探知器と組合せて運用し、対空砲に警報を出せるようになった。後のレーダーの発明まで、サーチライトの夜間対空戦での意義は大きかった。
このような歴史を踏まえると、敵対的な気球・飛行船対策は、まず、センサーが重要と言うことになるだろう。その上で、物理的に友好な迎撃手段を持つのか。それとも、敵対的気球・飛行船のセンサーを逆利用して、情報収集をスクランブル妨害、または、偽情報を流し込む手段を構築することになるのだろうか。