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この人に聞く

この「この人に聞く」ページは、「防衛協会会報」の連載記事として、全国防衛協会連合会にご協力いただいている方々に、防衛意識の高揚に係わるお話を、インタビューを通じてお聞きしたものをご紹介していたものです。
(会報掲載逆順、敬称略)

平成26年

佐藤恵一 縫櫻會会長

全国防衛協会連合会会報第126号(26.4.1)掲載
 
      
 
 
自衛官の「衣」を担う
 
 
 
 
平成26年2月12日東京駅構内で、縫櫻會会長佐藤恵一東和株式会社(福島県本宮市)代表取締役社長(特別会員)の話しを聞くことが出来た。  
縫櫻會は、昭和37年4月防衛庁(当時)納入する被服類の生産に携わる縫製業者12社で「品質及び技術の向上」を目的として結成発足した。以後、縫製用語、縫製要領の統一化、型紙の整備等を始め被服の品質向上、技術資料の提供、海外派遣部隊の作業服等の仕様検討、試作品の縫製等に尽力をつくしている。その功績に対して、各自衛隊から多くの感謝状が贈られている。  
平成24年5月にはグランドヒル市ヶ谷(東京都新宿区)にて50周年記念式典を挙行している。  
佐藤会長は、「現在の会員は17社であり、これからも自衛官に品質が良く機能性の優れた被服類を提供すべく活動していく。」とのことであった。  
人が生活して行くためには昔から「衣・食・住」といわれている。その「衣」を担う縫櫻會の活動に期待したい。

平成22年

●111号 22.07.01 母からむすめへ、文化は食卓を通じて継承されます 江上栄子(全国防衛協会副会長女性部会長)
●110号 22.04.01 ”不法占拠”されている北方領土 児玉泰子(北方領土返還要求運動連絡協議会事務局長)
●109号 22.01.01 ”日本人として”の子育てが求められる  松浦 芳子(東京都杉並区議会議員)

江上 栄子(全国防衛協会連合会女性部会長)

全国防衛協会連合会会報第111号(22.7.1)掲載

 
全国防衛協会連合会副会長  
女性部会会長  
江上料理学院院長
有田焼窯元香蘭社の深川家出身、東京在住、
青山学院大学卒、
フランスパリのコルドンブリュー料理学校最終課程卒、
フランスより「農事功労章」授賞

聞き手 本誌編集担当 岡崎 欽一
 

母からむすめへ、文化は食卓を通じて継承されます
 
Qなぜ食の道に
 やはり有田という土地だと思います。有田は松茸などの山の幸、大村湾の海の幸、佐賀平野のお米と地産の食材が豊富で、お客様は自宅でその料理を大皿でもて成します。 食は単なる料理に止まらず、美しい器とおもて成しの心の総和で、若い頃から関心がありました。
Qなぜ家庭料理に
 どこの国でも、やはり大事なのは家庭料理です。
 気候風土で異なる産物を家族の健康や知人をもて成すために作る、それが家庭料理なのです。
 家庭料理ほど実質的な価値観が横溢しているものはないと信じています。
 家庭料理は母から娘に伝える文化のエッセンスです。派手でも華美でもなく、地に足のついた、料理だけでなく挨拶や行儀とかも一緒に伝えます。
 それが本当の文化の継承で、食卓で教わる行儀作法、頂き方、習慣、味付けや取り分け方、そういうのは食卓を通じてしか受け継がれないものです。
 何世代もが一緒に食事を頂くことによって身体の中に沁み込む考え方、態度、勧め方、作法とかがあります。そう言う機会がないとすれば今のお子様達はお気の毒ですね。
 今では家庭内でも其々が自分の都合に合わせて一人で食事をする個食が問題になっています。
 可哀相に、もう慣れっこになって一人で頂く方が開放感もあり自由でよいと考える子供達もいます。
 それは嘆かわしいことで、一緒だと好き嫌いもできないし、ペースも合わせなくてはならずそういう我慢を覚える。一人ですと少し食べても、箸取りがおかしくても、こぼしても誰も何も言わない、それが子供達は伸び伸びすると思っているらしいのです。
 親が時には皆一緒で賑やかな食事をと考えても、子供達は却ってガッカリする、皆との食事は経験がないから、自信が持てないし、萎縮してしまうそうです。
 子供達が世界にどんどん発展していく上で、お仕事で大切な方と食事をすることもあるでしょうに。
 小さい頃から、例えば料理も、お祖父ちゃまから順に取っていく、またお祖母ちゃまが歯が悪るければお母様が沢庵の裏から隠し包丁をいれて食べ易いようにしてある、そういう風にするのだと分かります。一事が万事で社会的な適応の仕方を学びます。
 お弁当の代わりの給食だったり、塾通いのコンビニ弁当だったり便利と引き替えにいろんな事を学ぶチャンスが失われているような気がします。子供に自由にさせることは、その時は良くても、決してその子にとって幸せな事ではありません。それは子供には分からないので親が教えなければならない。賢い親はそこの所に早く気がつくのではないでしょうか。
 今の若い親は自分自身がそう言うことをして貰ってないから元に戻すのは大変なことで警鐘を鳴らし続けないといけないと思います。
 終戦の時、戦争に敗れても日本には伝統や歴史、文化とか素晴らしいものがある、貧しても鈍せず、大人がしっかりして美しいままの生活態度を取るべきと、その座にある方きちんと仰って下されば、どんなにか国民は意を強くし大人たちが奮起して子供たちを躾けることができただろうと残念におもいます。
Q夫婦別姓など逆の方向?
 おかしなことですね、食事も勿論ですが他にも家庭で躾けなければチャンスがないことは沢山あります。
 昔は母親が手を広げて年寄りから幼い子供達までを見守り、今季節の物は何があるか、この子は育ち盛りだからとか、お祖父ちゃんは歯が悪いからこういう物で栄養が落ちないようにとか、時期の恵まれた物産を食べることで経費を抑える、そういう賢い母親の役を日本の女性はできたし、それはまた一つの誇りでもあったんですね。
 極端に言うと今は翼を閉じて「あなた達も好きになさい、私も好きにするから、皆自由になりましょう」という風になってしまい、深い心で家の中の食卓を守る人がいなくなった。
 同じことで、中国の皇帝には医師団がいて、それは勿論外科や内科の偉い先生方の集まりなんですが、その医者達を統じるのは食医だったと言われています。つまり食べ物で皇帝の抵抗力、若さ、アレルギーなどを食医がまず整えて、それによって内科も外科も医療がし易くなる、効果が出易くなるわけで、食べ物が一番皇帝の力であると考えたわけです。
Q偏食について
 食育の三本柱の一つが選食です、自分が選んで食べられる教養、選ぶ知識、体験であり、それはとても大切で一朝一夕では身に付かず、小さい時から教えるべき事です。
 デンマークやスエーデンは子供の教育にとても熱心ですが、文字や数字を教える前にまず一人で食事を摂れることを訓練するそうです。
 つまりパンにバターを塗ってハムとかソーセージとか野菜とかを乗せ折って食べる、牛乳を飲みながら食べる、それができれば子供は、満ち足りて遊ぶこともできる、お母さんが働いてても大丈夫お腹を空かせないで待っていられる。
 それができてから子供に知識を教えるそうで、日本はそんな基本の「き」をキチンと教えていませんものね。
だから家庭を守るお母様方がもう少し自覚を持って食卓を整えて欲しいと心から思います。
Q社会進出と女性の地位向上は
 それは自覚によりますよね、自分が後ろ指さされないようなキチンとした元気な子供を、国家のためになり、人様の役に立つ子供を育て上げる、それが私の役目で、それを私はちゃんとやっているという自覚と誇りのある人は、外での仕事と女性の地位とは関係ないと思うでしょうね。
 昔の女性は忙し過ぎましたから、今はミキサーもありフードプロセッサーもあり本当に食を整えやすい環境で、女性は情熱さえあれば両立できるでしょう。
心をこめた季節の家庭料理こそ幸せの源です
Q家庭の食と男性の役割は
 そうですね、家庭の食卓はもう崩壊寸前ですが、そこでの男性の力は大きいとおもいます。父親が関心を持って一言労ったり、日曜日には少しでも手伝うなどと関与すれば考え方とか色んなものが変わってくると思います。
 最近は料理教室に男性も増え良いことだと喜んでいます。男性の生徒さんは長い方が多いですよ、年代は30代40代の若い方、少し仕事に余裕の出来た定年後の方それが一番多いですね、老後の楽しみというもう少し上の方もいます。
Q同時に色々する料理は男性は苦手では  
 そうです、四方八方に気配りするのが人間の生に関する積極的な態度だと思います、だから女性は長生きするのです、男性もそうなさればよろしいのに。
 米国でエリートを教育する機関が教育の最後に食事を準備させるそうです。
 五、六人で買い出し、料理、セッティングをさせる。
 例えばこのワインは二時間前には冷蔵庫に入れなきゃとか、これは冷えすぎているから出さなきゃとかすべての食べ物の温度を管理し、お皿を温め、もう頭の神経をフル回転させないとできない、しかも五人が連携してお互いの意思の疎通も必要です、これこそが仕事の上で大事だというのが結論です。
 兎に角、お料理は長生きをして友人を作って生活を楽しくする、それの要だと思います。
Q日本の食材は
 日本には三ヶ月毎の旬、季節がありますね、それと海に恵まれて魚介類これが日本のお料理の大事なポイントです。
 不思議なことに若いお母さん方で献立に困っている方がおられます。
 スーパーに行き、旬のもの春ならキャベツがあり、ジャガイモがありニンジンがあり、魚は鰆があり、その季節の物を何にしようかなと考えればお料理なんて出てくるものなんですね。しかも三カ月ごとにお野菜だって変わります、それに家族の体調ですね元気を出さなきゃとか疲れたからゆっくりしなきゃなどを組み合わせれば献立に苦労しないでしょう。
 あとお米の国ですから、季節の物を入れて一年中変化に富んだ美味しい炊き込みご飯、それから実沢山の汁物これがまた滋味に満ちて味も色々あります。それに味噌味、醤油味、中華の牡蠣油、ヨーロッパのトマトソースありで其々の野菜と組み合わせる味わいは日本には沢山ありますから、献立に困るどころか多すぎて困るぐらいの恵まれた土地風土なんです。
 ハワイに憧れても、物産は少ないし、お魚も限られています、サンタクロースのフィンランドはロマンチックであっても野菜は限られます。
 豊富な日本の太陽と産物これを利用しない手はありません。
 日本は食文化が最も発達する条件を持っています、他の国に比し大変恵まれているという自覚を持って日本の文化を次に伝えていかなければなりません。
 最近、オプショナルツアーで日本の料理を体験したいという外国人が増えています、特に興味を持つのがお出汁です。
 世界中日本だけです、こんなに短い時間で出汁がとれるのは。
 インドや中国、フランスなども、鶏や牛肉が多い、骨とかを長く煮込んでその汁を使う。日本は海の物でしょう昆布と鰹節、あっと云う間にお出汁が取れてしまう。
 料理というものは出汁から発出するので、出汁の材料になっているものが料理の原点です。日本人の長寿は出汁のせいではないかと思い出汁を見たいとなるわけです。もう一つはお寿司です、寿司の味付け、作り方、みな関心があり巻き寿司や花寿司を作りたがります。
 外国人の方が今の若い人達よりも日本の食文化に興味があるかも知れません、お箸も上手に使えます。
Q薬膳料理について
 もう三十年ほど前から家庭でできる薬膳を教えています。物はみな全て勢いを中に持っています、生薬のそれを生かして頂くと体がとても楽なんですね。春は春食べる物、夏は夏食べる物。どんなに酷暑であっても自分がそれを食べることによってクールダウンできる食べ物を神様は下さっています。
 例えば瓜類です、キュウリに白瓜、スイカなどは皆体を冷ます、それから秋になれば体の血流を良くする生姜を沢山食べるとか。血液サラサラのお薬とか何種類も錠剤を飲んでいますが、食べ物だと美味しいし効果があります、少し元気のない人には山芋を食べさせる、山芋もとろろだけでなく粉吹き芋にしたりフライドポテトにしたり、食材の力を使ってコントロールするのが薬膳なのです。  
 料理と別の物ではなく、料理の中のあるものに焦点を当てたのが薬膳です。
 小さいお子さんに必要なもの、お年寄りに必要なものを考えながら作ります。
 でもそれは神様が既にすごーく良く考えて作って下さっています、例えば寒い冬にはネギがとっても体を温める、ニンニクも茂るし韮もそうです。コントロールが出来るように仕向けて下さっています。
 こうゆう物を使いながら何時も思うのは、奥様のなさり様、食に配慮するかどうかはとても大切です。
 もっと女性が賢く、城の外へ出て頑張っている男性軍をしっかり力づけて更に賢く頑張ってくれるように仕向けるのは、賢い女性の役目ですよね。
 女性は大事なお役目を持っているわけで、それに自分の立場をあまり甘やかしてはいけません女性ももう少し自分に厳しく、安心して子供たちが伸び伸びとして育ち、ご主人が幸せな気持ちを持って我が家に帰ってき又働きに行く、こういうことは偏に女性にかかっていると思いが至らなければならないと思います。
 それには日常が大事でお互い夫婦の理解が、会話が大事でしょうね。 男性も料理は女性に任せてなどではなく、ちゃんと子供達が行儀良く食べているか、好き嫌いしてないか関心を持ってリード役になることはとても大切で、お料理もぜひ一分野担当されると良いと思います。
 要は男性が関心を持つかどうかなんです、大事なものを大事だと分からせるためには男性が少しでも参画することが必要で、それによって女性も立ち直ることができると思います。

児玉 泰子(北方領土返還要求運動連絡協議会事務局長)

全国防衛協会連合会会報第110号(22.4.1)掲載
1944年、歯舞群島志発(しぼつ)島生れ、 3歳までロシア人と共生。
47年強制送還、根室居住。 23歳根室市嘱託として納沙布岬で領土返還を訴える。
3年後上京、末次一郎氏の下で全国規模の返還運動を学ぶ。
77年「北連協」結成・事務局長、 78年「四島しまの架け橋」建設、 80年「北方領土の日」制定委員、 82年「北方領土返還要求全国大会」事務局長。
96年「北方領土返還要求運動功労賞」受賞。 2003年超党派「北方領土国会議員連盟」立ち上げに尽力。
ビザなし交流、地震救援などで北方領土訪問約30回
 
聞き手 本誌編集担当 森 清勇

訪ねたのは 「北方領土返還要求全国大会」を 3週間後に控え、 準備に大童の時であった。 インタビューの間も 隣室で作業中のスタッフに てきぱきと指示を出し、 中断することしばしば。 43年間の運動で覚えたのは 「忍耐だけ」と言われるように、 話の隅々に闘志が漲り、 正しく北方領土返還に賭ける 「ミセス・北方領土」である。

”不法占拠”されている北方領土
上京して返還運動を牽引
Q 何故返還要求運動を
A 祖母は島への愛着が強く、いつも帰りたいと言っていました。目の前に故郷の島があるのに何故渡れないのか不思議でした。嘱託職員の時、「いい島だ、生まれた島だ」と言いながら島に住んでいた方が1人、2人と亡くなります。それを見て「北方領土を理解してもらおう」と「北方領土PRガイド」として運動を始め、全国に運動を広めるため上京、アルバイトしながら知人を訪ね歩きました。
Q 上京されどうされましたか。
A 安保研を主催していた末次一郎氏に誘われ、北連協を作る準備をしました。当時は今の官民が協力する「全国大会」でなく、返還要求運動団体のみが開催する「国民集会」でした。皆さんは日常の仕事で時間的余裕がないので、私が北連協と全国大会の事務局長も兼ねてきました。
Q 他には
A 納沙布岬にある「四島しまの架け橋」と呼ばれるシンボル建設や「北方領土の日」制定にかかわりました。
Q 島へはいつ頃から行かれましたか。
A 88年の墓参が最初。93年のビザなしから頻繁です。94年の地震の時は救援委員会を立ち上げ、「北方領土は日本の領土、日本領土に住んでいる被災者を助けるのは当たり前」という考えで我々民間が救援活動を行いました。
Q 43年間の運動で変化したことは
A 当初は特殊な人と見られ、「あんた何なの?」と詰問されました。今では「北方領土」と言っても何の不思議もない様になり、国民に認められました。
Q 1956年の日ソ交渉に期待されたのでは
A 根室では提灯行列を準備しましたが中止しました。64年からは墓参が始まり(77年中断、86年再開)、92年からのビザなし交流で北方領土の現状が少し分ってきました。
Q 政府関係者の発言に困惑が
A 以前には北方領土は四島一括返還で纏まっていましたが、近年は二島返還論や面積折半論など、思いつき発言が多過ぎます。国家主権に関わることでは筋を通すことが大切、相手に付け込まれないためにも、政府は一枚岩であって欲しい。
Q エリツィン時代に返還が近づいたようにも思えました。
A クラスノヤルスク会談で2000年までに解決すると合意されました。期待しましたが解決には至りませんでした。残念でなりません。
Q あと一歩という気がしないでもないが
A 日本双方の姿勢と熱意ではないでしょうか。メドベージェフ大統領は「独創的アプローチで解決する」と発言しております。北方領土を日本に返還し日露関係を強化、アジアを視野に協力して行けるのではないでしょうか。
Q ロシアの作家ソルジェニーツィンは『廃墟の中のロシア』で不法占拠にふれていますね。こうしたことを両国民に知らせることが大切では?
A 風俗・文化が異なり、気の長いロシア人とどう対応していくか。ヒステリックにならずにロシア国民に向けての発信が大切ですし、国内においては、色々な角度からの啓発が必要だと思います。啓発の担当は北方担当大臣ですが、職員は14人です。ちょっと不足ですね。戦後65年を迎え、メディア時代に併せ、国民運動として本腰を入れて推進していくには発想の転換が不可欠です。
Q 国民に響くように
A 日本人はせっかちです。新しい物事には直ぐ飛びつくが飽きっぽいですね。でもこの問題に関しては根気良くこれまで継承されてきました。今後は戦略を立て、情報の発信が重要になると思います。特に若者が関心を持つようにしていかねばなりません。
Q 難しいですね。
A 色々なジャンルでこの問題を分かりやすく取り組んでいただきたい。小説やドラマにもサラリと入れて欲しいです。例えば北方領土問題検定を行うなどです。
時代に合った訴えで、風化させない
Q 風化させないために伝えていくこと
A 北方領土と言うと、あそこにロシアの軍人が・・・のイメージが強かった。私たちが力説してきたことは、一般の人が居て、豊かな自然が一杯ということです。今はエコの時代、北方領土の自然は大切だと思っています。四島返還という意識を強く持ち、社会現象に合わせた運動をやっていく必要がある。
Q 発想の転換が大切ですね。
A これまでの運動を基に更に国民が関心を持つように、釣りが好きな人、山登りが好きな人、自然を愛する人などに是非行ってみたいと思わせること。そのためには領土問題が解決しないと行けないというような説明をしています。
Q 元島民として伝えたいことは
A 日露間の条約はとても大切です。日本の領土として誇りを持って開墾した先任たち、その子孫として島で生活していた元島民の声を聞く耳を持って頂きたいです。時々、島には日本人が一人もいないから弱いと言われますが、ソ連軍に占領されても頑張って生活したこと、苦肉の策として強制送還に従ったことなどです。「このまま島に留まるとソ連の国籍に入れられることになった。自分たちは日本人だ。」 日本人として生きていくために止む無く引き上げ船に乗ることにした。必ず帰るとの決意を胸に。
Q “国籍の重み”ですね。
A 島民の痛みを分かってもらいたい。今日は父の命日だと思いながらも花を持って自由に墓参が出来ない。
Q 涙が出てきます!!
A 自分が60年間も故郷に帰省できないという“気持ち”、“痛み”を受け止めて欲しい。それには日常生活の中で「今年は帰省しない」、「選挙区に帰れない」という体験しかない。被爆者の痛みは分かって貰えるようですが、北方領土の痛みは分かって貰えない。
Q 政治屋が多すぎます。
A 国会議員が動かなければ、問題は解決しません。中国へ600人で行くならば、ロシアへ100人でも行って、クレムリン前で抗議のデモをやって欲しい。大ニュースになると思います。
Q 沖縄返還が実現した時、末次氏主催の安保研にソ連が接近してきたそうですね。
A 末次は戦後処理としてシベリア抑留、沖縄、北方領土をやっておりました。北方領土返還でソ連からは「ミスター・北方領土」と呼ばれていました。安保研は末次が亡くなってからも領土問題に取り組んでおります。
Q 首相・外相の頻繁な交代が日本の主張を弱めていますね。
A 日本という国は戦後復興のために頑張ってきた。生活も良くなった。そうした中でおざなりにされたのが北方領土です。官僚も総理大臣も変わります。そろそろ政府はこの問題の特別チームを立ち上げ、問題解決に向け奮闘して頂きたい。
Q ロシアの考えは?
A 返すのかどうかは別にして、避けては通れないと思っていると思います。プーチン元大統領の「塩漬けにしない」にも期待したが・・・。鳩山首相はサミットでメドベージェフ大統領に「二島では日本国民が納得しない。四島ですよ」と言いました。
Q 日本人はロシア首脳の言葉に踊らされてきた。
A 国交は回復したが、領土問題があるので平和条約が結ばれていません。昨年、北特法が出来た時、ロシアは敏感に反応しました。関心を持っているからだと思います。
Q 色んな組織がありますが、連携は上手くいっているのでしょうか?
A 連絡協議会を作ったのは末次。規約はなく、取り決めがあるだけです。各団体の運動は尊重されますし、連絡協議会はあくまでも潤滑油の役割です。防衛協会には大きな期待をしております。

松浦 芳子(東京都杉並区議会議員)

全国防衛協会連合会会報第109号(22.1.1)掲載
昭和23年、東京都生まれ。
東京家政学院短大卒後、日本女子大、慶大に学ぶ。
「論争ジャーナル」に携わり、三島由紀夫氏を知る。
55歳で杉並区議、現在2期目。
草莽全国地方議員の会会長、
CSTV「日本文化チャンネル桜」設立発起人、
田母神俊雄後援会会長、
誇りある日本をつくる会会長、
日本会議首都圏地方議員懇談会副会長、
健康管理士等。
著書『日本人としての子育て』『地域から誇りある国づくりを!』 『対馬が危ない!』(共著)ほか。
聞き手 本誌編集担当 森 清勇

食生活や家庭教育のアドバイスをしながら、日本の文化・伝統を継承する活動を永年続けるが、青少年を取り巻く事件の多発や行政に我慢できず、自ら政治に参加。 “毅然とした日本人”を行動で示し、皇室典範改正反対や拉致問題、外国人地方参政権反対、国境離島問題にも関わり対馬視察等にも率先して行っている。 「日本を愛する」純な気持ちは妥協を許さない「女三島」である(三島由紀夫の「楯の会」にて一緒に活動した唯一の女性)。

”日本人として”の子育てが求められる 
大きな影響を与えた人
Q 慰霊に熱心ですが。
A 10年間戦闘機で戦った勇士で、特攻隊の教官、そして自らも特攻隊員として命令を受け死と直面してこられた田形竹尾氏との出会いが大きいです。20年3月亡くなられました。
Q 残念ですね。
A 生前は戦闘で亡くなった人の供養と、特攻の本質や意義を後世に伝えるために出版・講演活動をされてこられましたが、「後をたのむ」と散って逝った彼らの純粋な姿を映像で残したいとの思いがありました。
Q もっと詳しく。
A 田形氏の通夜は不思議な通夜でした。田形氏が、天国にいる先に逝った彼らに会って「後の事は頼んできたよ」と再会を喜んでいるという雰囲気が会場内に満ちているのです。告別式でも参列者に「よく来たね」と言っておられる感じがしました。最後に「出征兵士を送る歌」を皆で歌いましたが、素敵な告別式でした。
Q 理解を超えています。
A 長年一緒に活動してきましたし、素晴らしい生き様に接しておりましたから、肉体は勿論ありませんが、一緒に活動している、一緒に歩いているという感じがいつもあります。
Q 議員には常に心の師がいますね。
A 少女時代に知り合った三島由紀夫氏は、純粋で素晴らしい生き様の方でした。その思いが田形氏につながり、そして今は「日本文化チャンネル桜」の水島総さとる監督・社長(チャンネル桜)に繋がっていると思っています。
Q 台湾へ行かれましたが?
A NHKは「JAPANデビュ」で屏へい東とうのパイワン族の先祖の方々を「人間動物園」と侮辱し、日本人には間違ったことを伝えました(世界中の人にも)。そのために現在NHKを告発し1万人以上の方々が訴訟を行っています。インタビューされた人たちの声を再確認するために行きました。
Q どんな所ですか。
A 台湾の南のパイワン族の方々は誇り高く純粋な方々でした。屏東は田形氏が、グラマン36機と飛燕2機で戦って生還された飛行場のあった所で、生前「もう一度行きたい」と言っておられた所です。当時の新聞記事を拝見しましたが、何度もその当時の話はお聞きしています。屏東に行くなんて夢にも思っていなかったんですが、屏東では、思わず空を見上げてしまいました。このNHK問題も田形氏が一緒に活動して下さっているはずです。
大切な、“日本人として”の子育て
Q ご著書は人生の指南書ですね。
A 『母親だからできる「日本人としての子育て」』に、“日本人は日本人らしく”と副題を付けました。「日本人の原点」のようなものを、母親として語りかけるように書きました。
Q 書き出しは食育です。
A 先ず骨格ができ、体格、人格、その上に品格・風格が備わります。生きる基本の“食”が最重要です。
Q そうですね。
A コンビニ等の繁盛で、食習慣もすっかり変わりました。「春苦み、夏は酢の物、秋辛み、冬は油を心してとれ」と言うように、野菜も魚も、“旬にちから”があることを忘れています。
Q 家庭の重要性ですね。
A 家庭、学校、社会へと人間は歩みますが、家庭と母は原点です。人生を左右すると言ってもいいでしょう。脳の30%が胎児の時期に作られ、75%が3歳までに形成されます。胎教は重要です。胎児の時も勿論ですが、幼児期には、素晴らしい絵本などを読んで聞かせて欲しいものです。
Q 内容も広いですね。
A まず「食育」、学校教育、地域社会での子育て、そして、親や大人がお手本を示すことなど、こういうことをしっかりすれば大丈夫ということを書きました。
Q “日本人として”がキーワードですか?
A 今は「日本人でない」日本人を多く見かけます。上手で巧妙な占領政策で教育された結果が今の日本ですから、国際化時代であるからこそ「日本人として」が重要となります。
Q 何か切っ掛けが?
A 毎年、高校生時代の春休みには橿原神宮の社務所で行われる約1週間の鍛錬会に参加しました。朝、玉砂利を踏みしめての参拝、親孝行の話や先祖に感謝する話、特攻隊の話などがあり、生き様、死に様、国家観、人生観、社会観など、色々学んできました。
Q “日本”が頭から離れない。
A 「日本」は自分が生まれ、育ったところです。日本が好きで当たり前です。
Q 靖国や拉致、領土問題で行動されるのも当たり前?
A 靖国神社は国家の為に戦った方が祭られている神社です、その方たちに感謝しなければ申し訳ないと思っています。
Q 子育ては郊外で?
A 教育は環境が大事。子供たちの小さい時は、都心を離れて山あり川ありの環境で育てましたが、良かったと思っています。「朱に染まれば赤くなる」と言いますが、話し方までも親や教わる人に似てきます。
今こそ行動が求められている
Q 議員になられた原点は?
A 子供たちの使う教科書が杉並区で採択出来るようになった時、当時の歴史教科書全部を読み、3日間寝込んでしまいました。敗戦の日を教えるのに、二重橋前で拝礼している写真ではなく、「ソウルの西大門刑務所から出獄した独立運動家たち」が載せてあるのです。これでは「日本人として育たない」、教科書採択に携わりたい。それが原点です。
Q 日本は崩壊すると。
A 歴史は、先人を温かい目で見て学ぶものです。議員になってからは文教委員会に所属して、「日本を誇れる歴史教科書」を採択して欲しいと活動しました。杉並区では、良識ある教育委員の先生方の尽力により、子供達は素晴らしい教科書で学んでいます。
Q 教育には特に熱心ですね。
A 子育ては大変ですが、とても重要です。わが子に日本の素晴らしさを知って欲しいと高橋史朗先生に「あなたは日本を語れますか」というテーマで講演をお願いしました。わが子4人には、各人をビデオ係、動員係、著書販売係などに割り当てましたので、友人等を誘いながら参加してくれました。講演会は赤字でしたが、教育費と考えると安いものです。
Q どんな話でしたか。
A GHQが押収した資料がダンボール1万余箱。一生かかっても調べきれないので教育改革だけに絞って99箱、240万ページの文書を調べたという事実の話は説得力がありました。
Q 反応は?
A 子供たちや子供の友人達は「もっと知りたい」「もっと事実を知りたい」という感情になったようで、講演会後、先生の周りに集まっていました。
Q 大成功ですね。
A 枝葉は変えてもいいが、根っ子だけは変えてはいけないと思います。民主党政権になり、日本人としての意識や親子の絆さえ断ち切られるのではないかと心配です。
Q 『ヤング・ジャンプ』の件がありました。
A 同週刊誌に連載の「国が燃える」を読んだ息子が、「お母さんが言っていることと違う」と言ってきました。私も読んで吃驚し、連載中止を求めて行動しました。
Q 皇室典範問題もありました。
A 改正を阻止しようと、1600人の老若男女が雨の中をびしょ濡れになって行進しました。兵庫県の講演会に応援に行った帰り、どうしても伊勢神宮に参拝しなければとの思いにかられ伊勢神宮に行きました。馬をつなぐ場所に「白馬」がいましたが、綺麗な目をした、「神馬」でした。早朝ですから辺りに誰もいません。思わず「典範改悪で日本の伝統が断ち切られてしまいます。どうか、何とかして下さい」と大きな声でお願いしました。
Q 叶いましたか。
A 翌日の朝刊に「紀子妃殿下、ご懐妊」とあり、白いお馬さんが聞いてくれた! びしょ濡れで歩いた行動を天は見て下さったんだ、と思いました。
Q 国家の大本です。
A 自民党は結党の精神を忘れています。保守が保守でなくなったら、終わりです。柱をなくして、枝葉末節ばかりではダメです。
Q 最後に英語教育について
A 英語は必要だと思います。ただ、正しい日本語と国史(歴史と国柄)をしっかり教え、その上での事です。「真珠湾を奇襲した」と言われれば英語で反論し、「私は日本が好きよ!」と英語で伝えてこそ日本人です。そんな毅然とした日本人であって欲しいと願っています。

平成21年

●108号 21.10.10 言語が衰えるとき文化も衰え、言語が滅びるとき民族も滅びる 小川 義男(狭山ヶ丘高等学校校長)
●107号 21.07.01 「一盌(わん)からピースフルネスを」を訴えて 世界60余カ国を行脚        裏千家前家元 鵬雲斎千玄室大宗匠
●106号 21.04.01 日本人よ!もっと「国家意識」を持とう 土屋 たかゆき (東京都議会議員)
●105号 21.01.01 軍隊・企業・地域社会に生きる 宮田 保夫(埼玉県防衛協会名誉会長)

小川 義男(狭山ヶ丘高等学校校長)

全国防衛協会連合会会報第108号(21.10.10)掲載
1932年北海道生まれ。高等学校卒業と同時に、中学校の英語科代用教員。
その後進学、59年北海道教育大学札幌分校を卒業。 その後、亜細亜大学大学院、早稲田大学大学院各修士課程終了。 早稲田大学大学院社会科学研究科博士課程を修了。
北海道及び東京都で公立小学校の教諭・教頭・校長歴任。 96年私立狭山ヶ丘高校校長となり、 東大その他難関大学への合格者を輩出させる。
百万部に達した『あらすじで読む日本の名著』(編著)をはじめ、 『気品のある生き方』『二時間目国語』『名物校長の教育論』 『学校崩壊なんかさせるか』など著書多数

1932年北海道生まれ。高等学校卒業と同時に、中学校の英語科代用教員。
その後進学、59年北海道教育大学札幌分校を卒業。 その後、亜細亜大学大学院、早稲田大学大学院各修士課程終了。 早稲田大学大学院社会科学研究科博士課程を修了。
北海道及び東京都で公立小学校の教諭・教頭・校長歴任。 96年私立狭山ヶ丘高校校長となり、 東大その他難関大学への合格者を輩出させる。
百万部に達した『あらすじで読む日本の名著』(編著)をはじめ、 『気品のある生き方』『二時間目国語』『名物校長の教育論』 『学校崩壊なんかさせるか』など著書多数
 かつて大衆を惹き付けた 「全学連アジテーター」のスピーチは、 音吐朗々、詩的韻律を帯びて快く響き、 生徒の心を惹き付けて離さない。 若者の力を引き出す世直しの 「カリスマ校長」は、 老いてますます盛ん、 校長自ら始業前の英語ゼミに 全力を傾けている。 このゼミには、 全校生徒の希望者が自発的に参加する。 小・中・高校の教諭・教頭・校長を 50年余やった実践から、 英語のほかに 古文・漢文の教養が大切だと強調する。
聞き手 本紙編集担当 森 清勇 /事務局 妹尾 隆

言語が衰えるとき文化も衰え、言語が滅びるとき民族も滅びる
驕らず、「怯え」を持つこと
Q ゼミの雰囲気がいい。
A 課業開始前の50分、毎日です。400人の生徒に授業が出来るのは、学校で私一人かも知れません。
Q 県下でも先生だけでしょう。
A 教材に関連のある「漫談」も長くなっては駄目。脱線は好ましいことではありません。
Q 教え方の難しさですね。
A 老人は「若い頃は・・・」と話したがる。しかし、昔話は慎しみ、先生について行けば「英語の力がつく」と思わせないといけない。
Q ご著書は分かり易いです。
A 演説は大衆に理解できなければならないし、本は人々に分かり易いものでなければなりません。
Q 文章の響きがいいです。
A 私は文を書く時、韻律があり、しかも短い文章にするよう心がけています。
Q 啄木などの短歌や漢文素読そどくの成果では?
A 漢文は世界で一番美しい。終戦の年、中学1年での4ヶ月間習っただけの漢文教育が、私に大きな影響を与えました。米国は日本人の精神を崩壊させるためか漢文教育を否定した時代がありました。
Q どんな生徒を育てようとお考えですか。
A 古文・漢文を読む基礎力があり、英字新聞が読める高校生です。
Q 県下有数の進学校にされました。
A 校長の第一要件は、何か間違っていないかと「怯える謙虚さ」です。怯えは「河童の皿の水」のようなもので、それがある限り大きな間違いを犯さない。私自身、「カリスマ」などと呼ばれたりする事もある。そんな時が一番危ない。自戒しているのですがね。
Q 国語のできる人が、割合難関大学に合格するそうですね。
A 松陰は5歳から伯父に論語の素読を教わっている。戦後教育は「考える国語」ということで、音読を軽視しがちであった。韻律のある美しい文を軽視して散文的なものを取り入れ過ぎた。国語力の低下はこの事と深い関わりがあると思います。
Q 「身体髪膚之を父母に受く・・・」などと言っても誰も分かってくれない。
A 知識は重要です。暗記したものが内面発酵し、そこから、自主性や創造性が花開くのですからね。「蒔ぬ種は生えない」のです。
Q(妹尾)英語の幼児教育については?
A 国語力が育っていない中に、週一時間程度の英語を持ち込むことは百害あって一利なし、しっかりした母国語の上に外国語として位置付けることが大切なのです。中学からで十分。
Q 英語は「手段」で、「目的」でない。
A 国際会議では英語を使うことが多いでしょうが、英語が出来るから尊敬されるというものではない。大切なのは、自国の伝統と文化について誇りと深い教養を持つことです。
課業前の朝ゼミで受講生を前にして指導する小川校長
倫理規範は成熟した世代が形成するもの
Q 躾をどうお考えでしょうか。
A デューイが言った「子どもは教育の主体であって、客体ではない」に対する誤解が、規範に乏しい日本にした。
Q どのように誤解しましたか。
A 母親の乳房にすがって育っている赤子は自己教育の主体たりうるのか。少なくとも幼い時期の人間には教育の客体としての一面がある。道徳規範は、基本的には成熟した世代の中で形成され、それが未成熟な世代に持ち込まれるというものではないでしょうか。
Q 発育段階との関係ですか。
A 小学3年までは先生にさえ良く思われれば友達の考えなどどうでもいいという発達段階にあります。高校生・大学生になっても、まだ完全に独り立ちできているわけではありません。
Q なるほど。
A 理屈は抜きにして、朝起きたら、「お早うございます」と言いなさいと躾ける。そうした中で、親に対する尊敬の心もできる。心から入って形に及ぶ事も大切ですが、形から入って心に及ぶことの大切さが忘れられてはなりません。ところが、戦後60年間の教育では、これを完全に没却し、「心から入って形に及ぶ」ことだけが一方的に強調された。そのようにして、酷い場合は親が子を、子が親を警戒しなければならないような世相が生み出されたのです。何しろ夫婦間ですら用心しなければならないケースさえ生まれているのですからね。   
Q 武芸も形から入ります。
A 形はどうでもいいという考えはまずい。最近、ぼろっちい格好で多摩湖を散策する老人を見かけます。それでも良いのですが、年寄りほど美しく装ってはどうか。色気とは、そもそも他人に(克く)よく思われようとして努力すること(なの)ではないでしょうか。色気がなくなったら人間はおしまいです。         
政治家を育てることに失敗した日本
Q 大東亜戦争について如何お考えですか。
A 勝った国と負けた国は歴史観が異なるので、難しい問題があります。例えば東京裁判は違法な裁判です。いずれ「無効」を宣言しなければならない。但しそれをいつやるかが国家の智恵、民族の智恵というものです。国際環境とは極めて難しい環境なのです。
Q 憲法9条については?
A 合衆国憲法は36カ条あるが、30カ条は部分修正です。日本の場合は改正手続きが世界一難しい硬性憲法です。全面改正は百年待ってもできない。従って、大切な部分は部分修正を急ぐことが必要です。例えば九条は(9条をすらすらと諳んじながら)前段はそのままにして、後段の「・・・陸海空、その他の戦力は、これを保持『しない』」を『する』に、「国の交戦権はこれを認め『ない』」を『る』に、3文字だけ改正すればよい。
Q 国民も分かってきているようです。
A 防衛を他国に依存しきっているようでは、本当の教育は出来ません。もしかするとアメリカは9条を改正せず、アメリカの保護国に留めておきたいのかも知れません。そしていざとなったら見捨てれば良いわけですからね。しかしまあ、国際関係を良好に保つことは大切です。このあたりが、これからの舵取りが難しいところでしょうね。
Q 政治家が頼りない。 
A 戦後は英雄否定の思想がばら撒かれた。今の政治家はひどいものですね。自民党の実情など、惨憺たるものですね。
Q 有能な生徒を育てることが先生の使命。
A 短命内閣が続いているが、公のために死ぬのが男の本懐といった浜口雄幸のような、骨のある政治家を育てるのに失敗した。
Q 英雄待望論ですか。
A 殉職した自衛隊(註)のパイロットは練習機を河川敷まで持っていかなければ助かったかもしれない。事実上の自決です。家庭では大事なお父さんだったろうに。こういう人が現代にもいる。
Q 素晴らしいですね。
A 当時の防衛庁長官はこの殉職高級将校を、「立派に死んだ」と何故言えなかったのか、自衛隊員を尊重し、彼らに誇りを抱かせることが大切です。イスラエルでは兵隊が手を挙げると、自動車に乗せなければならない。乗せないと処罰されるそうです。
Q なるほど
A 自衛隊は災害派遣などでも活躍してきた。北朝鮮問題で、軍事力が無ければどうなるか、国民も分かり始めている。拉致問題もある。9条の部分改正は急がなければならないと思います。
Q 防衛に対する意識も高まりつつある。
A へっぴり腰の首相が目立ちます。中国の潜水艦が領海に入ってきた時、「鯨だったかもしれない」と新聞に載った。それが今の内閣の姿勢でしょう。
Q 自衛隊は怒らなければならなかった。
A わが海軍(いや海上自衛隊)が潜水艦と鯨を見間違うはずが無い。現内閣の姿勢は軍の士気を阻喪させた。いざとなったら、誰が戦うのか。私たちは政治家を育てるのに失敗した。
Q  J・ラスキンは「戦争が思想を生む」と戦争を評価しています。
A 戦争も文化です。今度の戦争における開戦、敗戦には、軍部並びに政府に重大な責任がある。指弾すべきは徹底的に明らかにして行かなければならないでしょう。しかし戦争にも肯定できる側面はあった。 国家、民族が一つの心蔵で脈打つことでしょうね。だから、戦争が良かったとは思わない。マーシャル群島から樺太まで取られ、60万平方kmあったものが、今は37万平方kmしかない。
Q(妹尾)領土問題に対するアプローチは?
A 軍事的に失ったものは軍事的にしか奪回できないことは、フォークランドの例で分かる。北方領土問題は国際紛争ではないので、日本は奪回する権利がある。気概をもって政府が行動に起てば、ロシアは経済的にも苦しいので譲歩すると思う。全世界に通告して「これは限定奪還である。自国の領土を取り戻すためだけである」と宣言すれば、即日取り返せる。
(平成21年9月14日、麻生内閣時収録) (註:平成11年11月22日、入間市上空でエンジン・トラブルを起こし墜落)

裏千家前家元(鵬雲斎千玄室大宗匠)

全国防衛協会連合会会報第107号(21.7.1)掲載
裏千家兜門
「和敬」の御軸と大宗匠
 1923(大正12)年生。43年同志社大在学中に海軍入隊。 海軍中尉。45年特攻隊員で復員し復学、翌46年卒業。 49年大徳寺に参禅得度。50年ハワイ大学修学。 51年海外弘布開始。59年日本青年会議所会頭。 64年裏千家第15代家元。 97年文化勲章、98年レジオンドヌール勲章(仏)受章。 2002年家元譲座。『茶の精神』『生かされている喜び』 『千玄室対談集』など著書多数。 (財)日本国連協会会長。日本・国連親善大使。 哲学博士。文学博士。ハワイ大学歴史学部教授。                
(聞き手:本紙編集担当 森 清勇)
 対談の名手で、 宇宙を包み込む「茶の精神」で培われた グレゴリー・ペック似の大宗匠の 人間性に引き込まれてしまう。 300回を越す外国行の茶道行脚で 60余か国を訪問、 ローマ法王からエリザベス女王、 各国大統領・首相に 「一?わんからピースフルネスを」を 訴え続けた姿は、 天下一の茶人・千利休が 秀吉の武を諫めた姿の現代国際版であり、 『茶の本』で日本文化を世界に弘布ぐぶした 岡倉天心の再来である。

「一盌(わん)からピースフルネスを」を訴えて 世界60余カ国を行脚
特攻隊員を「お茶」で送り出す
Q 学徒動員で徴兵されましたが? 
A 昭和18年10月、徴兵猶予が取り消され、それ迄大学選抜の学生水上飛行連盟に所属して水上機の単独飛行までした後でしたので海軍に入隊しました。
Q 操縦士になられたのですか。
A 第14期飛行専修予備学生として土浦で3ヶ月間の士官教育を受け、形相判断(人相見)で偵察に回されました。後に水戸黄門で有名になる西村晃が「死相がでていて良かったな~、お前は長生きするで!」と言うので、「そうかな~」と。
Q 千・西村コンビの誕生?
A 徳島海軍航空隊へ転属後もペアでした。10ヶ月間の厳しい訓練を終えた昭和20年3月、士官以下約200名に特別攻撃隊(通称「特攻隊」)の編成が予告され、「官・姓名」を書いて「熱望」「望む」「否」の希望調査が行われました。熱望に◎をつけて提出、2週間後に特攻隊編成です。
Q どんな訓練でしたか。
A 明け方に沖縄に着くよう、夜中に発進する計器飛行訓練、急降下爆撃訓練、偵察機の両翼下に250kg爆弾を取り付け、偏流測定で方向や高度修正しながら爆撃照準具を操作する訓練など。5月20日頃から鹿屋、串良から出撃。西村も出撃しましたが、私には待機命令。
Q 死の感得は?
A 京大出の旗生君が「千な~、俺な~、生きて帰ったら、お前のとこの茶室でお茶~飲ましてくれよ!」と言うのを聞いたとき、「俺たちは死ぬのか?」と思い、頭から爪先に迄電気が走りました。「これが別れのお茶や」と思った途端、無性にお袋に会いたくなり、すっと立ち上がって「お母さ~ん」と叫んだら、皆も夫々立って、郷里の方に向って「おか~さ~ん」と叫んでました。
Q 出撃直前の空気は?
A 出撃前、「千、お茶にしてくれんか!」と皆によく頼まれ、飛行服のまま飛行機の横でお湯と羊羹で一服点たててやりました。「ああ美味いな~」、と一言いって皆喜んでくれました。
Q 残されたお気持ちの抑制は?
A 次々と駆り出されて行くのを見て、自責の念に耐えなかった。松山基地で2ヶ月間、甲種予科練習生(7つボタンの少年兵)の教育をしながら、出撃機会を待った。
Q 戦友を思われる日々が。
A 沖縄で慰霊祭をした時も、海に船を浮かべ、花やお茶をお供えした時も、波間から「お母さ~ん」と叫ぶ戦友たちの声が海底から聞こえてくるようでした。
Q 西村氏と劇的な再会が。
A 昭和21年のメーデーの日、文部省前の交差点でデモ隊に出会った。その中から、「せ~ん」と呼ぶ声が聞こえてきた。労働組合から「千」と呼ばれるはずはないやろうと思いながら演劇労働組合を見ると“死んだはず”の西村がいた。メーデー行進の中で、二人は「生きていたんか」「良かったな~」と涙ながらに抱き合い、亡くなった同僚のことを話して新橋まで歩きました。
アメリカの傲慢・日本の無気力
Q 復学・卒業後は若宗匠の道へ。
A 利休居士以来参禅している大徳寺に入り、後藤瑞巌老大師の下で修行、斎号「鵬ほう雲斎うんさい玄秀」を得て得度しました。
Q 弘布ぐぶを米国から始められましたが?
A 米国は広島、長崎に原爆を落し、日本以上の戦争犯罪国家ですが謝りもせず知らぬ顔をしている。そこで、「野蛮国でない日本、平和を愛する日本」の本当の姿を知ってもらおうと、弔い合戦の積りでした。
Q 滑り出しは如何でしたか?
A マッカーサー司令部に懇願して屈辱の「占領国民につき保護されたし」と書かれた紙切れをパスポート代わりに貰い、51年から2年間、平和を訴えてきました。ニューヨークのコロンビア大学にはノーベル賞受賞の湯川秀樹博士が特別研究員でおられ、博士のお世話で同大学でお茶の講義をしました。また、講和条約時、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ミュージアムで開かれた日本展で、私がお茶を点たて、鈴木大拙先生が「お茶と禅」を英語で講演され、歴史のない米国に対し胸を張って堂々とやりました。
Q 米国は寛容でしたね。
A ハワイ大学に籍を置いたご縁で、同大学には茶道の正式講座も開設され、毎年数回講義に出かけます。日本文化研究所に茶道研究センターが誕生するなど、とても協力的でした。
Q 今の米国は?
A 戦後のアメリカの寛容さには感激しました。他方、民主主義は素晴らしいと思っていたが、貧富の差は激しいし、白人優位の世界で、国がやっていることには失望しました。日本に対しては今日でも、大国主義というか我を押し付け、権力を振りかざす傲慢な態度が見て取れます。
Q 「一服どうぞ」(産経新聞連載)でも、苦言が多いですね。
A 米国大統領が広島や長崎へ来てくれましたか。昨年9月、ペロシ米下院議長が初めて広島を訪れ、平和の祈りを捧げました。訪米する総理はアーリントン墓地で供花します。日本は属国ですか? 政治家に信念がないからです。もっと若かったら政治の世界に飛び込んで、「全てが狂っている」「どういうことなのか」と言いたい。
Q お茶人は強いですね。
A 利休さんは武士といえども帯刀はまかりならん、と言った。下手すると首が飛んでもおかしくない時代、よくやったと思います。まずは(掛け軸を見て)「和敬」の念を持ち、どうしたら日本が世界の一員として生きて行けるか考えるべきです。未来に対する責任がある。
Q 敗戦後遺症が未だに。
A ドイツはアメリカの言うことを受け入れなかったが、日本は軍隊も教育も経済機構もダメというのを全部丸呑みした。少しは抵抗する豪胆さが在ってよかった。憲法も大切だけど、自国に対する信念から始めないと、ハッと気付いた時は壊滅状態になっている。
和魂で日本を取り戻せ
Q ご著書の『茶の精神』に感激しました。
A 学者方が書かれたものは表面的で、血のつながり、道どうの研鑽が抜けています。茶の湯の伝統の継承者としての家元には、先匠の口碑こうひや伝承資料が時間的な距離や空間的な広がりを越えて常に直結し、直接的に語りかけてきます。
Q 家元が伝統文化を堅持している。
A 茶の湯が茶道として存続しているのは、一重に家元制度の恩恵です。時代の流れを汲みながらも、先匠の遺芳と古典を道標として守って行くことが重要です。
Q メディアが日本を駄目にしている。
A 『源氏物語』の「乙女の巻」には、光源氏の子供で将来の天皇になる王子を「大和魂やまとだましいで教育」すると書いてある。本来の「大和魂」は「美しき心」です。  私も学生時代はハイネにかぶれ、マルクスにも引っ張られたが、神話から日本の歴史を記す「記紀」や平安文学の『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『大鏡』に感動し、また漢文で仕込まれたことがその後とても役立ちました。今は日本の古典を忘れ、漢文を読めない人が多い。和魂漢才であったものが、和魂洋才になり、今では洋魂洋才。日本でなくなっては元も子もない。
Q 今日庵(註1)には「飲中八仙人」(註2)の襖絵が。
A お茶は単なる芸術ではなく、花は四季折々の自然に、掛け軸は漢詩文や和歌などの文学に、茶道具や帛紗ふくさは陶器・金工・彫金・織や染めに関係する総合文化で、思想や哲学が背景にあります。
Q 宇宙にも通じる。
A 一畳半のお茶室は無駄のない空間。床の間と、お客様の一畳、亭主の半畳があれば十分。二人は此処から宇宙遊泳をする。空間芸術の大きさは無限です。だからお茶のことを数寄すきともいう。無から有、そしてまた無に戻る、無限世界です。
Q 正しく哲学ですね。
A 丸い円の中、これがお茶。だから四角ではない円窓(両手で大きな円を描く)です。  茶碗の中の緑は平和の色、大自然です。偉い人も貧乏人もない。心を一つに持つためには、触れ合いの機会・場が必要。一椀のお茶でアシミュレート(同化)することが大切。お茶はそういう精神的な思想、哲学的な意味をもっている。世界の人が心一つになる、「マンカインド イズ ワン」(世界人類は一つ)です。
Q 「和敬清寂」(註3)ですね。
A お互いに和し、尊敬しあい、清んだ心でいれば、動ぜず対処できる、それがお茶です。「寂」は「寂滅不動」の「寂」で不動です。
自衛官も「文」の心を
Q 裏千家は革新的だそうですね。
A 革新と言うんじゃなく、先頭を切っている。私は先駆者で、開拓者。何時も前向きで、海外弘布に努力してきました。海外拠点は135ヶ所。米欧は勿論、南米やアフリカでもお茶を楽しんでいます。今日庵には現在18カ国から48名の留学生がいます。
Q 日本人が茶心を忘れつつある。
A 大統領で何回も訪ねて来た人もいますが、日本の首相は初釜式の一回きり。日本が腰抜けになったのは、最高の生活文化であるお茶をしようとしないからです。自らの精神的立脚点、文化的背景を持たない人は、どこへ行っても尊敬されない。
Q 基本のやり直しが必要ですね。
A 飽衣飽食、他国のことばかりに気をとられて、自分たちの足元を見ていない。仕草や考え方まで米国一辺倒だと日本らしさが忘れられます。他人とぶつかっても平然としています。お年寄りがまごまごしていても声を掛けようともしない。いまの教育は「親と子」「先生と生徒」。「と」は「戸」で隔てです。私は、これを「子の親」「生徒の先生」のように、「の」即ち「和」の文化にしたいと思い、親子の教室を創設しました。
Q 自衛隊をどうご覧になりますか。
A 私は60年前の軍人だけど、飛行機乗りで戦闘してきた経験から思うと、自衛隊は実戦を知らない。実戦に近い訓練はやっているが、空中戦でも壮絶な空中戦をやらんことにはね。自国を守るためには強い軍備が必要です。戦争するために軍備をするのではなく、自国を守るための軍備です。他国の厄介になって、守ってもらう必要はない。
Q 防衛協会へのご注文は?
A 「武士道」です。自衛官は武士道を持ってもらいたい。誤った武士道でなく、書道をやる、謡を唄う、お茶を点てるなど、文を学び広い視野をもった自衛官になるように防衛協会は支援して欲しい。アナポリスで講演したときも戦う指揮官・軍人ではなく、戦争をやめる指揮官・人を守る軍人になって欲しいと話しました。
Q 本日は一期一会のインタビュー、有難うございました。
A 家元は一門の代表ですから、道どうをいう時には「ぴしゃり」と言いますが、政治・経済のことは分かっていても何も言えない(大きな仕草で口にチャックする)。今は86歳の老茶人。「自分のお茶」を点て、美味しく飲み、飲んで頂く、そして世の中が丸くなる。それで満足です。
(註1)今日庵:千利休の孫、宗旦が隠居した時に造った茶室の名称で裏千家の代名詞でもある。
(註2)飲中八仙人:杜甫の「飲中八仙歌」に出てくる李白など唐代の酒豪8人を、狩野探幽が今日庵の襖に描いたもの。11代玄々斎が茶杓に「李太白」銘をつけ、筒に「李白一斗 詩百篇・・・」の詩を書く。
(註3)和敬清寂:利休四規と呼ばれる。「和」は皆と和する平和の思想、「敬」は差別のない触れ合い、「清」は汚れのない静かな心、「寂」は何事にも動じない心をもつこと。

土屋 たかゆき(東京都議会議員)

全国防衛協会連合会会報第106号号(21.4.1)掲載
陛下の御真影とZ旗を飾った事務所
 
昭和27年生れ。独協大学法律専攻科修了。
憲法学会会員。東武百貨店勤務後、国会議員秘書歴任。
平成9年、都議初当選。 北朝鮮に拉致された日本人を奪還する地方議員の会会長。
中国のチベット弾圧や人権抑圧でも行動。
『教科書から見た日露戦争』 『日本人なら知っておきたい近現代史50の検証』 など著書、論文多数。 愛玩動物飼育管理士。
UIゼンセン同盟地方議員懇話会会長。板橋区選出

密室行政を嫌い、 国民(都民)に直接訴えるため毎日街頭に立つ。 事務所にはZ旗を飾り、 日本の歴史と伝統を尊重して自虐史観を口撃する。 拉致家族救出のブルーリボンを襟に着けて 奪還運動の先頭に立ち、 中国の領海侵犯に抗議して日本領の意思表示の為に沖ノ鳥島に転籍する行動派。 「日本(人)」を「思う心」がひしひしと感得される。 正しく「平成の吉田松陰」である。
(聞き手:本紙編集担当 森 清勇)

日本人よ! もっと「国家意識」を持とう
命を賭けて行動する直言の正統派
Q 国政に関する提起が多いようですね。
A 国会議員に領土・主権意識がないので問題提起せずにいられない。憲法は7日間で改竄された国際法違反の産物で、連合軍の日本弱体化政策の基本。あいまいな規定によって、国家としての形態をなしていない。共産党の野坂参三は、軍隊のない憲法は憲法足り得ないと議会で反対した。
Q 人権や自由が間違って理解されている。
A ある小学校では「お早うございます」という言葉が在ることは教えるが、挨拶するように強制しないと言う。教育の基本は我慢を教えること。それを教えてこないから、居酒屋やパチンコ店には託児所さえある所がある。
Q 日本は劣化するばかりですね。
A やる気がある子供は6%しかいない。日本が欧米列強の侵略に打ち勝ったのは、国民一人ひとりに国家意識があったから。米国の教育使節団はそれを見逃さず、アイデンティティを失くす教育を実践した。その「成果」が今、あらゆるところに出てきている。
Q 事務所は警備対象地域になっているとか。
A ソルジェニーツインは「平凡な人間のなしうることは、ウソの行動を支持しないことだ」と言った。拉致問題で北朝鮮を追求するのは当然のこと。別に気にもしていない。
Q 密室行政の追及にも熱心ですが。
A 日本人は平和や人権と聞くと、「いいことだ」と思い込む。学校でも、日本(人)=悪という自虐史観の教育ばかり。そうした、生徒をマインドコントロールする教育、教師の実態を議会で追求、世論に訴えてきた。 
Q 政治に無関心な国民が増えている。
A 「議員の質を見れば国民のレベルが分かる」という格言がある。ムードで選挙をする。美人や有名人に投票すると言った悪しき傾向がある。それでは、政治は良くならない。少なくとも政策を比較して投票しないと。
Q 外国は自虐をしないですね。
A 中国にアヘンを持ち込み、眠れる獅子と恐れられたシナを侵略した英国が、香港返還式典では、「英国が統治したから一漁村が此処まで素晴らしくなった」と言った。それでも北京政府は一言も反論していない。
Q 国益を毀損する事案がしばしば起きています。
A 英国は遠隔にある、フォークランド島を軍を派遣して奪回した。竹島問題では、主権の発動として軍を派遣して奪回すべきだった。ろくな抗議をしないから、今度は対馬も韓国領土だと言い出した。バカにするのもいいかげんにしろと言いたい。
「品性ある東京・日本」を連日街頭で訴える
Q 国旗・国家については如何でしょうか。
A 家には神棚があり、両陛下のご真影もある。当然、国旗も掲揚する。ところが、学校は密室だ。それを良いことに反国家的教育が行われて来た。偏向教育だ。「ルールに違反した教員は処分する」。これは当たり前のことだ。外国では国旗・国歌侮辱罪もある。
Q 元日の国旗掲揚状況を見て歩いたことがあります。
A 朝日新聞の調査で「日の丸支持83%」になっている。意外と、保守系の人が国旗を出さない。日の丸・君が代が好きだ、学校行事では国旗掲揚をすべきだという人は祝日には自分が率先すべきです。
Q その点、米国は違います。
A 米国は多民族国家だが、幼稚園年長組から21文字の国家への忠誠を教育される。国旗に正対し、手を胸に当てることも教える。国家や星条旗に対する忠誠心が強いから米国は健全だ。党大会では星条旗が林立している。サヨクもいないしね。
Q 村山談話が問題になっています。
A 大東亜戦争は侵略戦争だ、日の丸は侵略のシンボルだと言うが、米国は、ハワイの主要な土地を買い占め、ハワイ議会も白人を多数派にして追込み王朝を潰して併合した。アフリカにはアフリカーナというフランス語が話されている。インカ帝国を滅亡させたのはスペインだ。こうした歴史を知れば、日本がやってきたことは侵略戦争かどうか、自ずと答えが出てくる。
Q 道徳や義務の観念が失われた。
A 一日80万食とも言われる食料がファミレスなどで捨てられていると言われている。「もったいない」という感覚の欠如だ。道路に物を捨てないなども同様。 国民健康保険や国民年金、給食費なども納めない人が多い。権利の行使には義務が必要と学校でしっかり教育していないからこうなる。福祉は別にして、義務を果たさない者は、外国では「市民」とは言わない。当然、権利はない。つまり、自費で医師にかかるべきだ。それが民主主義の基本。
Q 自衛隊については如何でしょうか。
A 消防士、警察官は教科書に載っているが、自衛官は載っていない。多くの国民は自衛隊の活躍を知らない。どこの国でも、軍は栄誉を担い、国民から尊敬されている。自衛隊から国軍に脱皮をすべきだ。
Q 都議に総理大臣になって欲しい。
A 「自ら率先して給与を返上、議員特権を廃止、自ら範を国民に示して、堅忍持久を訴える。教育を立て直して、かつて日本に来た英国女性旅行家イサベラ・バードなどが絶賛した日本の品性と栄光を取り戻そう」と訴えたい。
人間性の回復・快適生活への提言も次々と
Q 「住み良い地域づくり」提言も多いですね。
A 私の提言で都営三田線の全駅にエレベーターが設置される。同線を西高島平から成増駅まで延長して東武東上線に繋げること、東武東上線は池袋駅から成増までを地下化して、地上に遊歩道や水辺・草地の野生生物生息空間(ビオトープ)を作ること、いま工事中の補助26号線はハッピーロード商店街を分断しないように商店街部分を地下化することも提案している。
Q 動物保護にも大きな関心をお持ちです。
A ペットショップで買う動物が問題。シベリアンに始まってダルメシアン、ゴールデン・レッドリバー、ダックスフント(長毛・短毛)、チワワと流行った。シベリアンは14歳まで生きるが10年で見なくなったし、富士の樹海などにはシベリアンの群れがいると聞いている。動物を飼う資格のない者が飼っていると言える。最後は捨てるか、安楽死。愛犬家など例外もありますがね。
Q ブランド品でも日本が最大の顧客とか。
A ルイビトンのバッグなどは外国では中産階級が持ち、修理して親子2代に亘って使用する。日本では少女たちが持ち歩いている。暫くすると飽き、質屋に売ったりする。分相応と言う言葉があるが、分不相応の典型だ。
Q コンビニなどの深夜営業には疑問。
A コンビニが不良のたむろ場所だとは前から指摘されている。アメリカ社会の悪いところばかりが取り入れられている。(親も)モンスターペアレンツと言うことばが登場したが、親たちも極めて「常識」に欠けている。教職員組合の「自由」教育の結果だ。何しろ、生徒に「性的自己決定権」があると言っているのだから、どうかしている。
Q 何事も過剰の日本?
A スエーデンの介護先進国と言われているが、3食の内、2食は冷たい食事。治療も病状を正確に話し、余計な治療は原則的に行わない。それでも、税負担が60%。消費税も高い。  
 高福祉には「高負担」が常識。このことを全ての国民が知るべきだ。更に、生命とは尊厳が伴って生命であることを再認識すべきだ。心臓が機械によって、「動かされている」のは「生きている」のではない。終末医療をどうするか、医療費負担の問題、本人の尊厳を合わせて考えるべき。

宮田 保夫(埼玉県防衛協会会長)

全国防衛協会連合会会報第105号(21.1.1)掲載

大正10年山口県生まれ 昭和17年9月大分高商卒、三井物産入社 同10月郷里で入隊 20年8月15日、南京で中尉拝命約半年間捕虜 21年3月復員・復職 54年取締役札幌支店長 57年代表取締役常務取締役福岡支店長 58年三国コカ・コーラ代表取締役社長 現在同社名誉顧問 平成5年「彩の国 新都市産業人懇話会」会長 平成12年埼玉県防衛協会会長 内外から勲章等多数受章

何事にも正直と情熱、先見性と決断力をもって全力投球。旅の先々で、難局を切り開き、知恵と勇気を与えてくれるという亀を蒐集、家は亀に占領されている。米寿を過ぎた現在も、各所からの要望に応えて、6時からのモーニング・セミナーで「食糧小国日本の危機」について語り続ける熱血漢。「森さん」と呼びかける柔らかさの中に、国の将来に思いを馳せる固い信念が見て取れた。
(聞き手:本紙編集担当 森 清勇)

軍隊・企業・地域社会に生きる
正面からぶつかり、全力投球すれば道は開ける
Q 「龍宮城」に来たようです。
A 社長になり世界を廻るようになってから亀を集め始め、今や53カ国から2000個以上。材質は金銀をはじめ、宝石、象牙、木材など27種。亀を見ていると心が落ち着くし、調べてみると世界の何処でも信仰の対象になり、童話になっている。これは知恵の神様とも見られているからで、『亀ものがたり』という本まで書いてしまった。
Q 銃剣道全国大会で準優勝だそうですね。
A 昭和16年11月明治神宮の体育大会で、大学・高専銃剣道全国大会が開かれた。当校も選手を出すことになり、剣道をやっているから出来るだろうということで特訓して出場。準優勝し小泉厚生大臣から表彰された。お陰で、学校も県も私も有名になった。
Q 軍隊ではどんなことを?
A 半年の繰上げ卒業で山口県の西部第四部隊に入隊。久留米の予備士官学校を終え、見習士官で第5航空軍(満洲)に転属。19年4月少尉任官、牡丹江の満洲航空修理廠配属。同7月、米軍の鞍山製鉄所爆撃の偵察と排除の為に独立整備隊長として山東省済南へ。同10月、南方派遣準備のため独立整備隊を編成して宇都宮に移動。20年3月、南方派遣中止に伴い朝鮮経由で湖南省蕪湖へ向かうが、南京到着後移動中止。第5航空軍第3飛行団に転属、8月15日を迎えた。 行く先々で機銃掃射や爆撃、潜水艦攻撃などを受け、九死に一生を得た。最善を尽くし、時を待つようにしたのが良かった。
Q 耳寄りな話があるようですが。
A 終戦時、南京城を守っていた我々は八路軍(中国共産軍)に囲まれた。共産軍の密使が南京城を引き渡すように迫ったが、蒋介石の依頼で10月末まで守り、その後捕虜。学生時代に学んだ中国語で収容所近辺の住民とコミュニケーションを取り、所内では英語教室を開き隊員に教えた。上海で米海軍LST乗艦時はこうしたことが大変役に立った。収容所では、何應欽将軍の「日本軍人に対等の敬礼をせよ」の布令で礼遇され、帰国できた。昭和60年、台北に将軍を尋ね、お礼を申し上げた。
Q 物産時代は大阪、札幌、福岡支店で勤務され、カラオケ大使の異名もあるそうですね。
A 新任地では経営状況と共に土地柄人柄を徹底的に調べて対応。仕事・土地・人を愛し、よく働きよく遊んだ。取引先が労働争議で倒産しそうな時、解決して感謝された。情熱と本音で体当たりすれば何事も上手くいく。
Q 外国勤務のない役員は珍しいそうですね。
A 物産ではよく働き、転勤先では会社業績向上の為、全力を尽くし成果を上げた。
Q 定年2年前に三国コカ・コーラ社長になられた理由は?
A 前社長の急死で、引き受けた。労働争議の経験も買われたのだろうが、創業20年目で業績は最悪。新製品開発などで軌道に載せ、年商1000億円、東証1部に上場した。骨を埋める覚悟で土地・家そして墓所まで買い地元人になりきり、テリトリーの埼玉・群馬・新潟3県の県益になるように心掛けた。
Q 大変な好奇心の持ち主のようですが?
A 民族のルーツに関心があり、行く先々で神社を訪ね、由緒書で調べる。私の出身地は山口県佐波さば郡出雲村、群馬県に佐波さわ郡大国村があることを発見。出雲の領主であった大国主命が群馬で祭られている。ルーツは一緒。「さば」「さわ」に関連した言葉が古代朝鮮にないかと訊ねて行き歴史学者に聞いたら、「サバル(サワル)」(器、領土)という言葉があった。
Q 小・中学校は大邱と聞きましたが?
A 父が総督府の先生でしたので、2歳の時朝鮮に行った。古代朝鮮には新羅、高句麗、百済の三国があり、百済は文化的に優れていたが戦争に弱かった。約1200年前、日本・百済連合軍は新羅・唐連合軍に敗れ、多くの百済人が瀬戸内海を経由して大和地方(現在の奈良県)へ亡命してきたと伝えられる。ウリ ナラ イルボン(私の国は日本)のようにナラ(奈良)が使われている。朝鮮には日本と同じように、天ノ岩戸や天孫降臨の話もある。
Q ハバロフスクで見つけた亀では、中国まで出かけて調査されたようですね。
A 高台の公園に亀の巨大な置石があった。ある時TVを観ていると、蒙古が草原を進む時、亀が写っていた。 その時、亀と蒙古→元帝国?大いに関係あるのではないかと思った。蒙古がアジアを含む広大な領域を支配下に置いたとき、ハバロフスクでも海に向う亀を置き、good luckを願ったのではないかと。中国の学者に尋ねると、「宮田さんの言う通りかも知れない」との返事。
Q 南米との関係は如何でしょうか。
A 私は10年前に、21世紀は南米の時代になる予言した。現在、ブラジルは所謂新興国BRICsのメンバーとして急成長を遂げつつあり、資源・食糧大国として日本にとって重要な国。南米では蒙古斑点のある民族が多く見受けられる。劇場にいき、音楽に耳を傾けると、西洋音楽には無いピーヒョロ、ピーヒョロという村祭りの笛の音が聞こえてくる。日本人と祖先は同じと思う。
戦後欠けている「三つの叱り」
Q 外国人は日本をどう見ているのでしょうか。
A 戦後日本の飛躍的な経済成長に対する驚きと尊敬の念を持ち、トヨタ・ホンダ・マツシタ・ソニー・トーシバ等の生産する自動車及び家電製品等に対する評価が高い。また多民族・多言語で一神教の彼らから見ると、一民族・一言語で多神教の日本は羨ましいようだ。
Q 近年は悲惨な事件が頻発しています。
A 教育には知育・徳育・体育が必要ですが、小・中学校の義務教育で日本史が軽視され、中でも近現代史が抜け落ち、誤魔化されていることや、家庭・学校における道徳教育が欠落していることに由来しているように思う。国家には歴史が必要であり、社会には道徳・倫理が不可欠。しかし、占領政策とその後の教育が歴史や道徳などを全面否定してきた。その結果、若者たちに国家や社会を意識する観念が不足している。
Q どのように立ち直らせたらいいでしょうか。
A 不良中学校に招かれて講演に行った。講話に入る前に、話が面白くなかったら、そっと出て行くことを約束。「私にとって生きること」という演題で、前日外国から帰って来たことから話はじめ、パスポートで何処へでも行けること、国内は日本語一つで通ずること、宗教でギクシャクしないこと、緑が滴る爽やかさがあることなど、日本の素晴らしさを話した。ところが30分もしないうちに、ガヤガヤと騒々しくなってきた。一人の首根っこを掴み挙げ、大声で怒鳴った瞬間、教室はシ~ンとなった。約束は守り、団体生活では人に迷惑をかけてはいけないことなどを話した。「叱り」は物事の善悪を教え込み、かつ理解させる手段の一つとして重要だと思う。今は先生が生徒を叱らない、親が子を叱らない、上司が部下を叱らない。この「三つの叱り」がないことが日本をおかしくしている。
Q「彩の国」となり、すっかり変わりましたね。
A「人間至る処青山あり」で、埼玉は私の第2の故郷。埼玉が発展するためには大きな核、政令都市となる核が必要で、私は全身全霊を傾けて邁進した。反対も多かったが誠心誠意の話合いで、いい結果になった。
Q ところで、防衛協会はどうあるベきでしょうか。
A 青年部会のような、若い人たちが育っている。国の守りについて、その重要性を多くの国民に知らせ、併せて、日夜分かたず黙々と頑張っている自衛隊をしっかり支援して欲しい。

平成20年

●104号 20.10.01 あらまほしき日本を目指して 中條 高徳(全国防衛協会連合会監事)
●103号 20.07.01 自衛官は専門知識と誇りをもって発言を 堤 淳一(丸の内法律事務所代表・弁護士)
●102号 20.0401 日本・日本語・日本人がおかしくなっている 小田島建夫(栃木県防衛協会事務局長)
●101号 20.01.01 安全は空気どすか 田中 峰子(前京都府防衛協会青年部長)

中條 高徳(全国防衛協会連合会監事)

全国防衛協会連合会会報第104号(20.10.1)掲載
 
 
昭和2年、長野県生。陸士(60期)在校中に終戦。
追放後、旧制松本高校(現信州大学)、学習院大に学ぶ。
27年、アサヒビール就職。
業界トップから限界企業に墜ちた57年、営業本部長。
徹底した市場調査でスーパードライを開発、 再びトップ・シェアに戻す。
著書『おじいちゃん 戦争のことを教えて』や 論文「道義を貫いた男たち」など多数。

隠岐に流された後醍醐天皇を 取り戻そうとしたのが児島高徳ならば、日本の伝統文化を取り戻そうと、靖国神社の英霊に誓い、千鳥が淵辺で気力・体力を充実させて、今日も講演行脚に赴く中條高徳氏である。「敗戦後60年“しか”経っていない、日本人の勤勉さで良き伝統風習を取り戻せる、挫けるな!」と、叱咤激励して止まない。
(聞き手:本紙編集担当 森 清勇)

あらまほしき日本を目指して
勝敗は正義・不正義と関係ない
Q 監事の「高徳」で、児島高徳を思い出します。
A 児島は桜樹に「天 勾践こうせんを空しうする莫なかれ・・・」の故事(註1)を書き残し、後醍醐天皇の股肱の臣であることを示します。 名は体を表すという。天皇家は代々「仁」を付けられます。人間は一人では生きて行けない、国民と共にあり国民を思われる心の「仁」で、謂われなきことです。
Q 戦争には参加されませんでしたね。
A 戦争は悲惨で、罪深いものです。従って過酷な戦いに参加した人ほど説明できない、語れないことがある。 私は原理原則を勉強したが、実戦には参加しなかった。だからこそ、戦争について語る責任がある。国連では191カ国が牙をむき出して国益をすり合わせている。外交で解決するのが基本ですが、解決できないこともある。この場合、パリ条約(註2)で認められている「自衛のための戦争」で決着するしかない。
Q 『おじいちゃん 戦争のこと教えて』が版を重ねていますね。
A 28版です。植民地政策で世界が征服されてしまいそうになった時、白色人種のチャンピオンであったロシアに日本が勝ったことは、全日本人が考えているよりも遥かに大きな意義がある。第1次大戦後の講和会議で日本提案の人種平等を否決した米国では、ほぼ80年後の今日、黒人の国務長官が誕生し、大統領候補さえ出ている。仮説ですが、日本が敗れておれば99㌫ロシア領になり、皇室は絶え、今日も白色人種の世界で、ロシアがペレストロイカ(民主化)に辿り着いたかどうかさえ分らない。こう診ると、日本の勝利が今日まで影響を及ぼしている。
Q そのような日本が挫けてはいけませんね。
A 勝敗は正義・不正義とは関係ない。勝った方が全て正しく、負けた側は不正義であったわけではない。米国の占領期間中の宣撫工作で、全て日本が悪かったと思い込まされた。映画『明日への遺言』は、日本軍人のあらまほしき姿、日本かく戦へりを教えてくれる。岡田資たすく中将は、東京大空襲や軍事要素のない居住地を焼夷弾で丸焼きにした米国を国際法違反と告発している。 日本は、百済の要請で出兵した「白はくす村江きのえの戦い」(7世紀)や13世紀の「元寇」では大敗したが、見事に立ち直ってきた。今次の敗戦で挫けてはいけない。
「ノーブレス・オブリジュ」を喪失したエリートたち
Q 押し付け憲法から“60年しか”経ってないと、述べておられます。
A 明治の初め欧米を見聞した岩倉は、日本は40年しか遅れていないと喝破し、国家の経綸は強い軍隊と優れた官僚の「富国強兵」でなければいけないと、士官学校や旧制高校を作った。私は両方に学んだ。松校は士官学校とは対照的に自律の3年間。寮は天井に至るまで落書き、寮雨と称する小便が2階から降ることも。先生の講義は千年一日の如しと云っては授業をサボって布団干しをやり、警察の看板を産婦人科のものに替えたりする学生もいた。 ホオ歯の高下駄を履き、汚い身なりであるが、地域の人は何れ国家のリーダーになる人物と認めており、それに応えようという心が自然に芽生え、国家のリーダーの自覚や寛容の心も育っていった。
Q 今はそうした自覚に欠けているように思えます。
A 進学校は、国家のリーダーを養成するところで、人間としての幅を広め、奥行きを深くする教養が大切。そのため教科課目では西洋史や日本史も学ぶようになっている。それを入試科目にないからとカットした高校が沢山あった。 何故、国民は湯気を上げて怒らなかったのか。他人の見ないところでは盗みを幾らやっても良いと言っているようなもの。これでは日本人全員が、「要領を以って本文とすべし」となってしまう。
Q こうした日本で大切なことは何でしょうか。
A 正直です。私は安倍能成先生の正直に惹かれて学習院大学にいった。陸戦法規は43条(註3)で「占領軍は、余程のことがない限り被占領国の法律に手を染めてはならない」と規定している。マッカーサーは知っていたから幣原首相を呼んで、帝国議会でケーデスの憲法草案を通せば、天皇の地位保全を保証ギャランティするし、占領期間も短くする。作らなければ我々が直じかに作ると凄すごまれた。だから幣原しではら首相は指示通利ケーデス案を第90帝国議会に上程した。 日本が独立を回復して数ヶ月後、私は憲法の宮沢先生に会って、「学者として、憲法作成のプロセスをいち早く国民に知らせる責任がおありでしょう」と問うたら、「高徳君、君は命が掛かっていないからね~」と。生活がかかっているから節を曲げるのも仕方なかったと平気で言われた。また、占領軍に迎合した著書を占領下で出版し、独立回復後、部下に回収させて最高裁長官になった人もいる。こうした言行不一致は不正直の極みです。不正直の要領良さが日本を堕落させた。つまり、「正直」ということは、生きるためにも、商いをするためにも、政治をするためにも、先ず自分自身が正しく身を持し、相手(客)から見て正しい道を模索し続けなければならない。
「躾」と「気づき」で世直しを
Q 静かな佇まいの皇居が日本のアイデンティティを凝縮していると思いますが。
A シェーンブルグ城のような外国の王室は征服者コンカラーとしての力を示す必要があるが、皇室は象徴としての権威を示すだけです。皇居も徳川幕府の廃城です。聖徳太子は、神かんながらの道100㌫で生きておりながら、仏教を受け入れた。日本では神といえども絶対ではなく、良いものは他所から躊躇なく取り込む。この「いい加減さ」「アバウト」が日本独特のアイデンティティを生み出し、日本を日本たらしめている。世界が共存して平和に向かうためには、聖徳太子的方程式が一番いいと思う。
Q 人間的には昔の方が進んでいたのではないかと時折思いますが。
A テレビを夜通し観ては、通勤電車で寝ている。文明文化に徒いたずらに掉さおさすわけではないが、「有難う」という感謝の気持ちで、「自然と共に生きる」ことがあっていい。そうすれば、夜の営みもあり、少子化なんかで苦労することもない。豊かさに辿り着くと夢が小さくなり忍耐力もなくなって、人間をどん底に向かわせる。これを正すには躾以外にない。人間が高等動物と言われる所以は、「してはいけないこと」「しなければならないこと」のけじめが出来ること。 
Q どうして躾が乱れてしまったのでしょうか。
A ルーズベルトやマッカーサーは日本人の優秀さ、強さはベクトルの方向が一致すること、つまりは民族の絆の強さからきていると見抜いたので、日本が再起できないように仕向けた。 命がけで法律を作り命がけで戦ったにも拘らず、負けたら唯々諾々と外国がつくった憲法に従う。これでは精神的奴隷です。憲法前文の「諸国民の信義に信頼して・・・」は、あらまほしきことだが、誰が見ても誤り。 国民から選ばれた議会がかくあるべきだと哲学的に最高最良の判断をし、多数決で決めた戦争であったことには違いないわけで、堂々と正当性を主張するべきであった。日教組からも講演依頼があり、委員長から「執行部のとった選択が正しかったと信じて進みます」との力強い手紙も届いた。危ないと思う「危機の量」と「気づきの嵩かさ」は一緒だから、せめて5百年前からの歴史を勉強して早く目覚めて欲しい。
註1:呉王に敗れた越王・勾践を雪辱させた忠臣・范蠡はんれいの心境で、「天勾践こうせんを空しうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」と詠む。
註2:不戦条約やケロッグ・ブリアン条約とも呼ばれ、国策としての侵略戦争は禁止。しかし、自衛戦争は認め、自衛か否かの判定は「自国」がすることになっている。
註3:ハーグ条約は、付属文書の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」43条で、「占領者ハ絶対的ノ支障ナキ限リ、占領地ノ現行法規ヲ尊重シテ…」と規定している。

堤 淳一(丸の内法律事務所代表・弁護士)

全国防衛協会連合会会報第103号(20.7.1)掲載
1941年(昭和16年)神奈川県横浜市生まれ
1964年中央大学法学部卒 同年司法試験合格、
1967年弁護士 95年日弁連常務理事
2001年全国弁護士協同組合連合会副理事長
 現在、丸の内法律事務所代表・弁護士
防衛省オピニオン・リーダーなどを努め、
歴史や安全保障問題に関心をもち、
研究を続けている。

江戸時代やその後の世界の潮流を知れば、日本は行動の正当性を主張していいはず、しかしなぜか自虐史観に捉われている。自衛隊も憲法に規定されない故か、何かあるとマスコミが針小棒大にネガティブ報道する存在で、 自虐に陥っているのではないかと心配。国の守りにつく自衛官が余り口を開かない、誇りをもてないようにしている日本はおかしい、と告発する正義の味方である。
(聞き手:本紙編集担当 森 清勇)

自衛官は専門知識と誇りをもって発言を
近現代史から日本を覗く
Q 貴事務所のホームページ(http://www.mclaw.jp/)に、「太平洋の覇権」を掲載しておられますね。
A このエッセイは日本がグローバルプレイヤーであった織豊時代から以降の歴史を太平洋を中心に描いているものです。やがては明治維新から昭和の時代までを対象としてみたいと思っているのですが、何年先に終わることやら・・・。是非ご覧下さい。
Q 織豊時代、日本がグローバルプレーヤーだったというのは。
A 戦国時代末期から信長、秀吉の時代を経て徳川秀忠の時代にかけての外交は、とても面白いし、日本人の精神が溌剌として躍動していた。室町時代末期にも日本人は東南アジアに船を出して南蛮貿易を行っていた。江戸時代になっても、将軍秀忠の江戸ではなく、家康が隠居した駿府(静岡県)において大御所となった家康がビザとパスポートを発給しており、異国の船が多数集まり、一大貿易拠点となっていた時代があった。
Q そういう時代に何故鎖国を。
A 鎖国は一つにはポルトガル、スペインによるキリスト教の布教政策に対する脅威、二番目には当時貨幣として流通しはじめてきた銀による国際貨幣制度に日本が巻き込まれることに対する警戒心の二点からではないかと思います。
Q 鎖国で日本は変わりましたか。
A 江戸時代は狭い地理的環境と定量空間の中で資源を効果的に利用し、それぞれの業を営む人が他との競争に勝てるよう工夫を凝らした結果、緻密な技術や良質な商品が競って産み出された時代であったと思います。また海外からものが入ってこないため、ものを大事にし、思いやる心でそれぞれが工夫しながら誠心誠意働き仕事を極める、こうした労働感覚は、やがては労働することは自分を完成させるための途である、という風になってゆき、そこに美意識を認め、日本的「道」の発展へと結びつく原点になっていったように思います。こうして江戸時代末期から明治時代になって入ってきた西洋の精神文化及び資本主義といったものを受け入れる素地がとっくにできていたと思うのです。
Q 日本人はなんでも「道どう」にしてしまう。
A そうですね。いろいろな道と呼ばれるものがありますが、そのいずれもが工夫に工夫を重ねそれを洗練したという点では共通しています。しかし道には心がついていなければなりません。最近ではどうも廃れています。国技の相撲にもこのことが表れており、あまり愉快ではありません。道には「惻隠」という感情が大切です。たんに「勝てばよい」ということのほか、何かが必要なのです。
Q 20世紀に入ると日本は植民地政策をとるようになります。
A 植民政策は今日の21世紀の視点からではなく、その当時日本が置かれていた国際環境のなかに位置づけられなければならない。日本の植民政策は世界史の中で最も遅れて行われたのですが、過去何世紀にもわたって諸外国が行ってきたのとは全く別の方法をとった。例えば、日本は1910年に朝鮮半島を領有したが、法制上は朝鮮国皇帝が日本の天皇に主権を譲与するとして、きちんとした外交のもとに行っており、欧米列強もこれを承認していたのです。日本は決して不法のもとに領有したのではなかった。
Q 日本は満洲に理想国家の夢を見ました。
A 満州については新国家の建設という方法をとりました。中国(清帝国)の主権が及んでいる土地を横奪したということが言われていますが、いわゆるリットン報告書においても、日本が中国の主権を奪ったという結論は出していないのです。
Q アメリカの鉄道王と言われたハリマンが鉄道買収を考えたができなかったということが、反日感情を煽ったのでしょうか。
A その頃から日本は満州を共同開発しようというアメリカの言うことを聞かなくなったのは確かでしょう。そしてそれから日米関係はおかしくなっていったと思います。日本ももう少し日米関係をうまくやればよかったとは思いますが。
如何なる戦略で安全を確保するか
Q 日豪関係をどう見ますか?
A オーストラリア大陸は今後日本の政戦略を考えるうえにとても重要だと思います。現在アメリカを軸として考えると、ブッシュ政権の言う“不安定な弧”の東側に日本―グアム―ハワイの三角形の地域を設けようということです。私はもっと突っ込んで、日本―ハワイ―オーストラリア―バンコク(タイ)あたりのソロバン珠か西洋凧のような形のコモン・ウエルスを考えています。この中には台湾、フィリピン、マレーシアや日本を大事な国と考える太平洋の群島諸国を含みます。しかしアメリカは自らの力で東南アジアを主導しようと思っているのですから、難しいでしょうが。
Q ソロバン珠の真ん中にあるグアムの価値は。
A グアムは日本とオーストラリアのちょうど中間にあり、昔からそうであったようにアメリカの戦略的大要点だと思います。沖縄からグアムへ戦略拠点を移そうというアメリカの戦略は、台湾の将来やあるいは紛争多発地域といわれているインドネシア、中近東(イラン、イラク)という“不安定な弧”を十分見通せる良好な地点にありますので、日本の沖縄返還も飛行場問題や局地的問題としてだけではなく、アメリカの米軍再編の動きは今いったような大きな戦略観点から位置づけられるわけです。
Q 中国軍の増強は何が目的でしょうか。
A 中国は何のために膨張しようとしているのか、よく分からない点がありますね。中国を統治するためにはやはり国威や軍備、軍の力が必要とされているのでしょう。あるいは覇権国家になろうとしているのでしょうか。言葉も宗教も違う民族から成る中国は、将来一つの国にまとまり続けていくことができるのかどうかわかりません。例えば満州地方、沿岸地方、内陸地方、山岳地方の四つに分け、それぞれに自治権を与えて連邦のような形にでもしていかないと経済の跛行的状況からして内政的に無理なのではないかという気がします。
Q 論文(防衛法研究30号)もお書きですが、軍法会議については。
A イージス艦「あたご」と清徳丸の事件をきっかけに軍法会議があったらなぁという人がいます。軍法会議を考えるうえで留意しなければならないのは、軍事裁判所は憲法上の特別裁判所であるということです。旧憲法時代には軍法会議が設置されておりましたが、現行憲法は特別裁判所を認めないことになっておりますので、現在のところいわゆる「軍法会議」は設置することができません。軍事においては専門性が必要とされ、いったん軍隊内に犯罪が起きたときはこれを軍法会議で裁くことの合理性は明かですが、憲法を改正しないで軍隊内に軍事裁判所を設けてはなりません。
Q オピニオンリーダーになっておられますね。
A 防衛省(庁)と陸幕のオピニオンリーダーを10年ぐらい務めております。オピニオンリーダーになって勉強することもたくさんありました。例えば自衛隊は「軍隊」として練度が高いこと、また知識欲が旺盛で、特権意識がないこと、高級幹部はいずれも紳士的な雰囲気があることがよく分かりました。反面「軍隊」でないので仕方ないこととはいえ、誇りが少し欠けているという点が残念です。国を守る自衛官が誇りをもてない待遇をされてはいけないと思うし、自衛官は専門家なのですから、法の許す範囲で国の安全について大いに声をあげるべきでしょう。

小田島 建夫(栃木県防衛協会事務局長)

全国防衛協会連合会会報第102号(20.4.1)掲載
インタビュー中も多忙な小田島氏
写真は30余年間、丹精こめて制作した艦船模型、左から戦艦「金剛」・「大和」、重巡洋艦「高尾」、駆逐艦「巻雲」

昭和21年、岩手県北上市生まれ。國學院大学文学部史学科卒。学生時代はヴェトナム戦争の研究をする傍ら、DJに熱中。卒業後、栃木放送にアナウンサーとして入社。57歳で退職後UAAを設立。教育再生に熱心で、日本教育再生機構のタウンミーティングin宇都宮ではコーディネーターを担当。東部方面隊オピニオンリーダー、栃木県安全保障研究会会長、栃木県防衛協会事務局長等

時間が来れば終わりという先生が多い中で、宇都宮アナウンス・アカデミー(UAA)を訪ねた時、時間がかなり過ぎても授業が続いていたのに驚いた。近代化の初め来日した小泉八雲は、日本人が英語に熱心になると日本人ではなくなると危惧した。アメリカナイズした今日、学生の国語能力は確実に低下し、日本的道徳も薄れ、八雲の予言が的中しつつある。UAAは「綺麗な話し方」だけでなく、「日本語の美しさ」や「教育のあり方」、「日本人であること」までも教える日本最古の“足利学校”の再来を思わせる。
(聞き手:本誌編集担当  森 清勇)

教育再生に傾ける情熱
日本・日本語・日本人がおかしくなっている
Q どうして、軍艦などに関心をもたれたのですか。   
A 造形美が一番の原因だろうと思いますが、亡き母の長兄が海軍機関学校出身でした。最後は戦艦「山城」の機関長をしていて戦死したのですが(鈴木一)、戦前に乗っていた空母を母が見学した話などを、子供の頃よく聞かされたことがありました。又、父が軍属(技師長)で小月や福岡・宇都宮などの飛行場建設に関わったようです。父は「隼」で有名な加藤建夫戦闘隊長に憧れていました。私の名前も隊長に因んでつけたようです。そのような両親の影響でしょうか。昔から戦記物が好きでした。   
Q アナウンサーになろうと思ったキッカケは。   
A 父の本籍が岩手県で、それが理由で戦中に一家が東京から岩手に疎開しました。岩手で生まれた末っ子の私だけが(五人兄姉中)純粋な岩手弁でした。それが理由でか、言葉の綺麗な人に憧れていました。子供の頃、アナウンサーの高橋桂三さんが岩手県出身の人だと知って、「自分も大人になったらアナウンサーになって、ラジオ大好き人間だった母にニュースや音楽番組を聴いてもらいたい」と思ったのを覚えています。でも、姉や兄たちは標準語を笑われたと言ってましたね。
Q 栃木放送では洋楽(ポップス)が人気でしたね。
A 報道系をやりたかったのですが、大学時代ディスクジョッキーをやっていたこともあって、音楽番組やワイド系の番組が多かったです。もちろん田舎の放送局ですからスポーツ・ニュース・音楽・司会と何でもありでした。「ポップスベスト10」は30年間、1400回余り続きました。
溶けてゆく日本文化 地歴教育で日本再生を
Q さて、本題の日本語について伺いたいのですが
A 大昔から時代とともに言葉が変わってきたことは当然のことです。しかし、戦後、それも近頃の変わり様、というより乱れようは深刻でしょうね。処方箋が見つかりません。これも教育現場の歴史に起因するのでしょうか。栃木・茨城などは無アクセント帯と言われていますが、有力な大名がいなかったこともありましょうし、江戸と河川が直接繋がっていなかったことに起因していると思われます。
Q 何が標準語になったのでしょうか
A 江戸時代に大名屋敷に出入りしていた商人達によって作られていったと言われています。参勤交代制で全国の大名や武士が集まっていましたが、それぞれ言葉が違います。出入り業者は困ったと思いますよ。江戸260余年を掛けて近畿・関西方面の言葉をベースに作り上げられていった言語が標準語になったと言われています。それが通訳の言葉として採用され、やがてNHKによってアナウンサーの共通語として使われ、電波に乗って全国に広まったのでしょうね。
Q 月刊誌「フーガ」の「小田島人間塾」では辛口の連載が続いていますね。
A 最初は地元女性月刊誌に50回ぐらい連載しました。その後横浜に事務所を移した地元月刊誌「fooga」(「風雅」の意)に連載し、50数回になりました。(註:07年12月号では、「江戸の末期と現在と」の表題で、江戸末期の世相と今日の状況が類似していることを説く。こうした風潮が、「戦争加害者日本」という一方的な言い掛りに対し、ただ謝り続けるだけの政治家や、賄賂と利己主義に走る官僚たちに起因していると譴責。また集団自決問題などで、自虐的に先人たちを責め苛むだけの教育界やマスコミの姿勢を告発する。)
Q 日本が解けて行くような気がしてなりません。
A 扶桑社の教科書(註:「新しい歴史教科書をつくる会」編纂の歴史と公民の教科書で、自虐史観を排除)は全国で数箇所の学校でしか使われていません。戦後暫く、GHQの検閲で黒く塗りつぶされた教科書が使われました。昨日まで「万世一系の…」とか言っていた先生たちが、あっという間に「民主主義万歳」となり「マルクス・レーニン主義」に染まり「共産主義・ソビエト万歳!」になってしまったのですからね。生徒に合わす顔が無い、教師の資格が無いと思わなかったのでしょうか。団塊の世代はこのような日教組に染まった先生に教わった典型でしょう。その先生に教わった子供たちがまた教壇に立っている。今のマスコミのデスククラスにはこの団塊の世代が多い。これが偏向マスコミの因にもなっていると思います。
Q かなり突っ込んだ問題に入り込んできました。
A 極東裁判の結果をすんなりと受け入れた日本の従順さは何なのか。敗戦国ドイツは教育と憲法では譲らなかった。ニュルンベルグ裁判で一応の決着がついたが、その後もユダヤ虐殺などに関しては「自らの問題」としてナチスの責任者などを徹底的に追及し、自らの手で裁いています。 日本の場合はまったく違う。事変や真珠湾などの責任は軍人だけに有った訳ではない。あの戦争を通して政治家や軍人、外務省など官僚の責任を「日本人自身の手」で分析し、犯罪は犯罪として日本の刑法に照らして裁くべきだった。同時に日本の法に照らして無罪は無罪とし名誉を回復すべきだった。明治以降の歴史の光と影を日本人自身がしっかりと確認することを放棄した。戦争は一方だけの理由で惹起するものではないと思います。あの時代の背景をしっかりと見据え、何ゆえに日本は戦争に突入していかなければならなかったのか、出来るだけ客観的に歴史を教える努力を「国」も「教育者」も放棄している現状では、この先の日本が思いやられます。
Q 日本は国家の尊厳や存続を疎かにしたというわけですね。
A 幣原首相や吉田首相は大変頭が良かったと思います。幣原喜重郎は軍隊否定の現憲法を受け入れ、吉田茂は安全保障のすべてを米国に任せました。経済復興重視に徹し、結果今日の日本の素晴らしい繁栄をもたらしました。しかし、その繁栄とは裏腹に、安全保障・教育・道徳・倫理観など多くの分野で途方も無い混乱をもたらしたのも、その結果と言えると思います。歴史教育を全ての高校の必須科目とし、偏向したイデオロギーを排除した近現代史を教える環境が出来ることを期待しているのですが。

田中 峰子(前京都府防衛協会青年部長)

全国防衛協会連合会会報第101号(20.1.1)掲載
 
1973年カリフォルニア大ロスアンジェルス校 に語学留学 1974年学生欧州視察に参加 1976年大阪教育大卒 1988年(株)冨田屋社長に就任 1993年「古都の風」着物マナースクール (現:和道会)設立 1999年富田屋、国の登録有形文化財に指定 2001年京都府防衛協会青年部会入会 2004年青年部会会長 (青年部唯一の女性部会長) 現在 京都商工会議所女性会理事 全国防衛協会連合会青年部会副会長 同志社大など各大学の講師を勤める。

 
 
不況のどん底で苦しんだ挙句、「伝統と歴史の西陣」の再建に成功、“京都の心・日本の美”を「西陣くらしの美術館」から世界に発信している。 「愚直」が好きという純な心の持ち主で、自衛隊に惚れ込んだのもその表れ。「夢」を求め、実現に向かって邁進する鉄の意志が和服の似合う姿態に隠されている。
(聞き手:会報編集担当 森 清勇)

安全は空気どすか
「文化、伝統、歴史の街京都」を世界にアピール
Q 130年の歴史を持つ有形文化財に指定された町家暮らしですね。
A 大学までは冷暖房鉄筋3階建ての超近代的な暮らしで、スキーや水中ダイビングを楽しみ、マツダ・コスモを乗り回していました。縁あって神様が一杯いやはるお化け屋敷みたいな古い仕来たりの町家へ嫁ぎました。マンション暮らしで、家業も継がない条件で、たまに来た時は神様に手を合わせてや、言われただけでした。 しかし、母とおばあさんが家の伝統を守るのに一生懸命やったし、母の老いていく姿見て、「手を差し伸べよう」思う気持ちになりました。
Q 冨田屋を継がれた時の心境は如何でしたか。
A 家業はどん底。周りから「あんたが社長になりなさい。先祖を守りなさい」と言われ、いやいや仕事を、北海道から九州まで売り出しで回りました。根性物語でしょうか、今風「おしん」でしょうか。 毎日“一休さん”なって虎(不景気)退治を考えました。ある日、「伝統と歴史があるやないの!」「西陣~、ジン・ジン・ジン・・」と神の声が聞こえてきた気がしました。その時、“もう一度、人が沢山行き交う西陣にしよう”と心に決めました。 内部充実と在庫減らしを徹底し、5年間は借金も一切しないと心に誓い、また、呉服を理解してもらうのに色々考え、町家体験・文化体験を始めました。それで京都市から「オスカー」認定(経営改革)を受けました。
Q 海外着物ショーをやられましたね。
A 外人さんは日本の文化や歴史に大変な興味持ってはります。海外にもっと日本をアピール出来たらいいなあ思うて、2005年にカナダで着物ショーと文化講演をやり、来年はイギリスでやります。大好きなオードリー・ヘップバーンのように恵まれない子供達のために日本文化を通じて 親善大使みたいなことをすることが夢です。 着物を着せてあげて喜んでくれる人がいるんやったら、東南アジアなど、色んな国に行って文化を伝えたい、思うてます。
Q 日本の文化を宣伝する時代になったんでしょうか。
A 文化は本来身近なもんやけど、敷居が高くなり、日常のものでなくなってしもうた。庶民は楽しかったから継続してきやはったんです。お雛さんを見て喜ぶ、お茶でも難しいこと言わんでおいしく飲ましてあげたい。着物はこう着るんだよ、と持っていって教えてあげたい。戦後は着物を着なくなって、アメリカナイズされたライフスタイルに憧れた日本人は心まで忘れていった。日本へ来た外国人は、フランス料理ばかり食べていたが、最近は、日本文化に対する見方が変わり、日本食を希望する人が多い、と麻生外務大臣(当時)が言うておられました。今や、日本の文化・伝統を世界に発信する時代です。
「平和」は「防衛」と一体です
Q 防衛協会に入って変わられましたか。
A 戦争、武器、自衛隊など、女性には全く関係ない思うてました。安全は空気みたいあたり前に存在する」、と見ていたわけです。しかし、防衛協会に入れてもろうて、知識が増えていくに従って、男性・女性に関係なく「防衛」については考えていくことが大切やな~思うようになりました。これから日本を背負って行く子供たちのことを考えると、日本人の行動様式と全く異なる国が日本の周辺にあるということについて考えることが大切ですぅ。日本がそんな国々と商売をしていくためには、国の気質や文化の違いをしっかり理解しておかないとね。昔の学生さんは車座になってキャベツを食べながら議論したと言います。正しいか、間違いか議論しなあ分かりません。成人を過ぎた大学生たちは、議論もせなあきませんね。今 集団的自衛権についての理解や日米安保体制についても「アメリカは日本を守らなければならないが日本は集団的自衛権が行使できないのでアメリカを守れない」そのかわり「極東における平和と安全の維持に寄与するため」など、正しい理解が必要ですね。 米軍が日本に居るだけで「嫌や」言う人も多いが、知識を得ると考えが変わってきます。米国が日本やグアムに居ることの意味を考えることが重要ですね。
Q 自衛隊をどう評価されますか。
A 商売はビジネス、予算ばかりですが、自衛隊は「純粋やなあ」「正直やなあ」思いました。人がすごくいい。そう思ったとき、私の心が動いた。私が伝えたいことはこういうことなんや!人のため、国のため、命を投げ出すこと、今の日本人が忘れていることです。「愚直に生きる」、とても好きな言葉です。世間の人たちはほとんど自衛隊の人と触れ合う機会がないでしょ。もっと、必要性や純粋な思いを知っていただかなければとシンポジュームをやったんです。日本の安全や防衛を真剣に考えたら、感謝の念が出てこなアカン。成人式(の荒れ具合)などを見ると、自衛隊で色んな体験をさせてもらう制度を作ったらいいですよね。
Q 青年部会長として心掛けられたことは何でしたか。
A 青年部が如何に大切か、重要な部門を担っているかを多くの人に分かって貰うこと、「夢」を掲げ実現することでした。会長になった時、①増員・増強 ②近畿ブロックの形成 ③シンポジュームの開催の3つをやろうと思い、全部やりました。シンポジュームにも会場に入れないくらい若い人が沢山来てくれはって嬉しかった。 京都は元来左翼が強いところで、赤旗新聞などは日の丸の旗でも振り回すのではないかというイメージで見ていたんでしょう。そういうところに私が着物で挨拶に立つものですから、皆よれよれとなられたんですよ。世間的には厳ついイメージはなくなったでしょうね。青年部の人たちは戦争を知りません。理論的に分かっていただくことが必要です。自衛隊や防衛協会に対する意識を高めることが出来たとしたら、嬉しく思います。
Q 防衛協会との関わりをどう考えられていますか。
A 国民には、素人が伝えた方が分かり易いと思います。「こういう行事がありますよ~、楽しいですよ~」と伝え、国民を振り向かせることができればいいですね。国の安全について一寸でも考えるようになったら、気持ちが変わります。国民がもっと真剣に考えたら、きっと良いアイディアが浮かんできます。核についても「議論したらアカン」と誰も議論せえへんかったら、米国のライス国務長官も飛んで来ないし、核の傘を差すなんて言ってもくれないと違いますか。非核5原則になっていませんか。国民一人ひとりが「平和を望む」ならば、「防衛を考える」ことが大切です。日の丸も揚げて、君が代も歌わなアカン。君が代を今の子は知らない。国旗や国歌に反対する、こんな国がありますか・・・国を思い故郷を愛するのは、人としてあたりまでのことですよね。

平成19年

●100号 19.10.23 ”21世紀は東北の時代”の牽引車たらん 村井 嘉浩(宮城県知事)
●099号 19.07.23 「国思う心」は当たり前という風土を耕す 田中 カツイ(新潟県自衛隊協力会事務局長)
●098号 19.04.23 イラクでは”心(意)”で仕事  佐藤  正久(元第7普通科連隊長)
●097号 19.01.19 ”美しい日本精神”育てる  町田 錦一郎(群馬県防衛協会会長)

村井 嘉浩(宮城県知事)

全国防衛協会連合会会報第100号(19.10.23)掲載
 
昭和35年 大阪府豊中市生 47歳 防衛大学校卒(28期)後、陸上自衛隊に入隊。ヘリ・パイロットとして1尉まで勤務。 湾岸戦争後のPKO審議の瑣末さに失望して政治家を決意、松下政経塾に入塾。卒業後、宮城県議(自民党)に3期連続当選。平成17年11月、宮城県知事となる。

 
 県民の安全と幸せを願い、かつ「21世紀は東北の時代」の牽引車を標榜して大胆な将来ビジョンを打ち出し、トップ・セールスに精力を投入している。パイロットで培った着地点を見誤らない確かな技法と、マックス・ヴェーバーが政治家の条件に挙げる責任感、情熱、洞察力を兼備した若きホープである。
(聞き手:本紙編集担当 森 清勇)

”21世紀は東北の時代”の牽引車たらん
自衛隊と政経塾での教育が生きる
Q ベスト・ファーザー賞を受賞されましたね。
A 各種の会合等では副知事でなく知事に来て欲しいという要求が多く、可能な範囲で応じていますが、はっきり言って土・日は有りません。娘たちには「どこがベスト・ファーザーなの?」と言われ、妻にも素晴らしい賞を戴いたのですから、「ベスト・ファーザーになって下さい」と念を押されました。どうやら、期待値込みの受賞です。(笑)
Q 政経塾はどんなところですか。
A 5年以内に卒業することになっていました(現在は3年以内)。1年目は基本カリキュラムが有りますが、2年目以降は現地現物で自習自得するのが塾主(松下幸之助)の方針です。2年間海外に行ったきりの人もいます。私は三浦朱門・曽野綾子夫妻と一緒に聖地巡礼をし、バチカンではローマ法王に謁見しました。自衛隊が行く前のゴラン高原にも行きました。場所によっては写真の撮る方角にも制限が有るなど、厳しい国際情勢を肌で感じました。韓国には2ヶ月間滞在し浦ホ項ハン製鉄所を、スウェーデンやスイスにも滞在して福祉や地方分権について研修するなど、外国にはかなり出かけました。塾主は既に故人でしたが、直接薫陶を受けた人から、また書籍やビデオなどで塾主の思想哲学を学び影響を受けました。自衛隊と塾での経験が私の処世軸になっています。
Q 自衛隊の経験は生きていますか?
A 自衛隊での任務分析などの思考過程はとても役に立ちます。また、ヘリ・パイロットは目標地点のはるか遠くに「遠方目標」をとり、その間に「中間目標」を設定して、万一自分の位置がわからなくなったような場合でも間違いを防ぐようにします。県政においても同様です。とかく政治家は「夢のある」などの空体語を多用して目標を曖昧にしますが、私は遠方目標を明確にした全く予算を掛けない手作りの「将来ビジョン」を創りました。特に経済目標に関しては長い間、県内GDPが8兆5千億円で頭打ちでしたが、10兆円という明確な目標を立て、達成に向けて製造業、サービス産業等の夫々に中間の必成目標を設定し、目標達成に向かって真っ直ぐに進んでいます。
Q 政治とは何でしょうか。
A 県民の生命・財産を守ることが最小限で、その上に色んな施策があります。宮城県には自衛隊の駐屯地・基地が沢山あり、心強く思っています。選挙を考えると、飴を差し出した方が楽な面が沢山有ります。しかし、10年後、20年後、即ち次の知事や、そのときの県民が「いい宮城県だ!」と思ってもらえるようにすることが私の役目だと思っています。2期目の県会議員選挙を前にして定数逆転区問題が起きました。1期目にビリで当選した私が苦戦するのは目に見えていましたが、私が提案して正す以外にないと思い、自区の定員1減を提案しました。結果的は上位当選で、今日があるわけです。政治家は目の前の得をする方を選びたがりますが、得な方へ流れていくと、目標が分からなくなります。県民の幸せを目標に、舵をとるのが政治だと思います。
Q 「責任は全て私がとる」と公言されていますね。
A ポジションに居ることを目的にすると、やることが小さくなります。いつ辞めてもいいと思ってやると気が楽になり、思いっきりやれます。ただ、自衛官に戻れないのが残念です。(笑) 「継続性」や「慣習」で仕事をやるよりも、前に進んで失敗した方がいいと思っていますので、「創造」こそが県政のキー・ワードです。知事宛に手紙が沢山来ますが、筋の通っている指摘に対しては職員を厳しく叱ります。一方、職員は家族でも有りますので、間違っていなければ守ります。
地方主権時代への第1歩を踏み出す
Q 「21世紀は東北の時代!」と喧伝されています。
A パイロットとして北海道から九州まで飛びました。その時、空から俯瞰して、関東・関西・中部などは主だったところに工場や住宅が建ち並んでいて、これ以上広がる余地はないと思いました。東北は雪が発展を阻害してきましたが、新幹線・高速道路・三陸縦貫自動車道などの社会資本整備も進みました。物凄く広い地域も残っており、発展への要素が残っており高いポテンシャルとなっています。日本の中心は、歴史的にみても邪馬台国のあった西側から東側に移ってきています。この流れは変わらないように思います。その受け皿が東北です。
Q 道州制についてはどうお考えですか。
A 東北が一つになると、オーストリアと同じ経済規模になります。日本の中にオーストリアと同等の地域ができ、海外と対等に闘うことができます。国は外交、防衛に特化し、それ以外で住民に近いことは市町村に、それより一寸上のものは地域が道州の単位で形づくっていく。徴税権も地域に持たせないと、日本が立ち行かなくなると思います。東北は寡黙で、一つ一つをこつこつときっちりやる人が多い地域です。その中でも、宮城が牽引力になって南3県(宮城・福島・山形)の方から発展する流れをつくりたい。食糧も豊富で、「食材王国みやぎ」はこれから伸びていく地域です。
Q スイスに学ばれたことはなんでしょうか。
A 国のリスク分散が重要なことです。日本は政治・経済はもとより、文化も東京に集中しています。核が一発落されたら、国は廃墟と化します。スイスは都市の機能分散と国際政治を意識した主要都市の配置をしています。ジュネーブは国際都市で、周りをフランスに囲まれ、チューリヒは商業都市でドイツの国境近く、ベルンは首都(国内政治の中心)としてジュネーブとチューリヒの中間あたりです。
Q 地方主権という言葉を使用されていますね。
A 分権とは誰かから分けて貰うことですが、地方が中心になり、直接税は地方が事情に合わせて税率を決めるといった地方主権が必要です。国は間接税だけで、外交・防衛をまかなうべきです。こうしないと、地方主権は進みません。国の役人は自分の持っている仕事を最大限最優先に考えます。もっと上の高い所から日本全体を見て考えるのが政治家です。佐藤(正久)氏には、防衛省の代表ですが、こうした視点でやって貰いたい。
Q 座右の銘をお聞かせ下さい。
A 一般には“人事を尽くして、天命を待つ”と言いますが、私の座右の銘は「天命に従い、人事を尽くす」です。ある人が松下幸之助塾主に、塾生をどうやって選ぶかと聞いたら「運と愛嬌で選ぶ」という返事だったそうです。どちらも見れば分かるとの事。天命、運命は必ず有ります。それを悟って、一生懸命尽くすと大きなことが出来るということです。 お金は単なる手段で、何の幸せももたらしません。目標に決めた何かをやり遂げて、はじめて満足感が得られます。受動に陥るのではなく、能動的に立ち向かう気概を座右の銘には含意させています。

田中 カツイ(新潟県自衛隊協力会事務局長)

全国防衛協会連合会会報第99号(19.7.23)掲載
 
昭和15年新潟県生。 新潟大卒、小・中教諭28年。 平成2年からライフ・コーディネータ、教育コンサルタント 平成4年(有)アド・クリーク新潟設立専務取締役 新潟県・市の政策プラン策定委員をはじめ 県内の地域づくり活動をコーディネート 「縁側」活動をテーマに書いた全国生きがい 作文コンクールで内閣官房長官賞受賞、 現在法人越のみちネットワーク女性会議理事長 新潟オランダ協会副会長、 新潟県自衛隊協力会事務局長など

縁側、花筏 (いかだ)、東山魁夷などが、話の中でぽんぽんと出てくる。日常の何気ない風景をステージに仕立て、人の心と自然を結び付け、住みよい環境造成に余念がない。人の暖かさ、忘れられていく仕来りを再興し、消えかけた日本語に郷愁を持つ。防衛にも素人が参加することで異質をコラボレートし、日本の安全に別のルート(思考)で接近しようとする。尽きない語りと思いに託する情熱が、サミュエル・ウルマンの「青春」を思い出させた。
(聞き手:本紙編集担当 森 清勇)

「国思う心」は当たり前という風土を耕す
「国を思うのは当たり前」心の通い合う日本人となるために
Q「餅撒き」の話には感動した人が多いようですね。
A NHKの朝の随想で話しました。昔は家を建てることは大事業で、餅を撒き、喜びを分かち合うのは当り前。今は小家族だから話し合い、喜びを分かち合う相手さえいない。
 人との出会い自体が困難になってきました。そこで、教職を離れて3ヵ月後に自宅を開放し、誰でも気楽に入れる「縁側」活動を始めました。
Q 教育問題が議論されていますね。
A 中学の国語教師で、最初に出会ったのが芥川の「蜘蛛の糸」でした。お釈迦様の試練に晒された?陀かんだ多たが、蜘蛛の糸にぶら下がって逃げようとします。多くの罪人も後に続きますが、?陀多が自分独り助かろうとしたとき糸が切れ、再び蓮はすの下の地獄に落ちます。
 生徒たちは「蓮の下には何もない」「素早く上を掴めばいい」などと最初は言います。しかし、読んでいくうちに、感じ方が変わって行くのが嬉しかったですね。
 内閣でも、教育を何とかしようとしていますが、教育は体系的に実施すべきもので、「母乳を飲ませなさい」のように、一つのシンボルでしかないものを単品で取り上げてもダメ。「品格」というだけで全部がつながる、こういう凄い言葉が中心にあるべきです。
Q「越のみち」をはじめ、越の国の再生に尽力されていますね。
A 日本の活性化とか、美しい日本と言っても、それは地方が自慢できるものをもって初めて言えます。「私は越の国の『芋粥』」(芥川の短編小説で、人をひきつけるもの)は何か」をアピールしようと思っています。50歳の時退職して新しい活動を始めましたが、気付いたら1年に100回位の講演をしていました。
 越の国には、継体天皇の出自に関わる話や恵まれた自然が有ります。日常の中にある風景をステージにする発見はしんどいですが、楽しいです。花とみどり、川風い吹かれる筏もそうした産物です。 中山間地に山菜取りに行くと、九十九つづら折、雪の妙高、山越しに遠望する棚田、遅咲きの山桜、近くの集落・・・全体が東山魁夷の世界で感動します。
Q 時代と心の感性の問題のように思われますが。
A 言葉が心に染み込まなくなっています。人と出遭って何かを感ずる力、即ち国語力が弱っています。共感する土壌がないので、アプローチの仕方を変えることが大切です。3分で終わる会話を、30分もたせるためには「どのようなルール」をつくるか。「それ行け、これ行け」とリーダーが旗を振る時代から“一人ひとりがリーダー”の自覚を持つ時代へシフトしています。
 今の若者の一文の長さは精々5文字や7文字だそうで、とても感情の表現など出来ません。「愛」も消えかかっています。ある大学で「愛について」レポートを求めたところ、一番長く書いた人で400字詰め原稿用紙2行だったそうです。宜むべなるかな!と思います。 日常生活で使う機会が少なくなった日本語に「悴かじかむ」があります。悴むという感性を知らないと「温かい」が分からない。このように消えかけた日本語が大好きですね。
21世紀のリーダーとして言い出しっぺになれ
Q「己、地域、仲間、仕事」の四愛について語っておられますが。
A 私の仕事は仲間の力を結集して地域を活性化することです。自分自身をダメと思うと次へ進みません。大切なことは自分に対してどれだけ肯定的な視点、己に惚れる仕掛けを持つかです。私は仕事に出掛ける前の小1時間に5~6回着替えをします。それは、おしゃれからではなく、今日のメインの仕事に対して、どれが最も相応しいか、また前後の仕事とも上手くつながるかを考えるからです。ある瞬間、イメージが変わると、タクシーが来ていても待ってもらって着替えます。自分が気に入った時、自分が発揮できるからです。
Q どのようにして不特定多数の力を結集するかですね。
A “イベント・プロデュース”も私の肩書きの一つですが、自ら求めて「これをやろう」「随いておいで」ということはせず、誰かが「こういうことをやりたい」と思いつき、「カツイさん、力を貸して」と、はまっていくんです。人と一緒にやると、凄く力を発揮できます。人に会うと「この人は何を狙っているか」が読み取れます。出会いの最初の1時間、2ヶ月、或いは長期スパンの中で結果を出す力をサポートするわけで、納期を守るように仕上げます。
Q 日本は世界とどう関わればいいでしょうか。
A 世界をリードできるのは、ありとあらゆるものを受け入れることが出来る日本しかない。日本には世界に誇れるものが沢山あります。  
 例えば、良寛(新潟県出身)にシンボライズされるように、無償の「私」が存在した時、初めて何かが動く。 日本は発信できるのにしていない。「核を持っているぞ」「何時でもボタンを押せるぞ」というのがリーダーではなく、「発信する日本」の烽火のろしをあちこちで上げることが大切で、そうした仕掛けをするのが教育だと思います。日本が言い出しっぺになることです。
 日本人は、日本の素晴らしさを忘れてきました。一匹の猿が顔を洗うと世界中の猿がまねる「百匹の猿」ではありませんが、リーダーが的確に発信すると、「品格」のように受け入れられます。
 「もったいない」は本来日本発ですが、ケニア共和国のノーベル平和賞受賞者マータイさんによって世界に発信されました。外国に向かって発信すると同時に、国内でも親子、家庭、学校、地域などで発信を繰り返すことが大切です。
Q 連合会で、唯一人の女性事務局長として、違和感はありませんか。
A 国防、防衛、自衛隊について自分自身の中で、或いは国としてどう生きるか、という考えがあったので容易に受け入れました。また、自衛隊に関わりの少ない人の方が思いを拡げ易いという意識もあります。
 私には全てが新鮮で、驚き・感動であるように、異質がコラボレートしていくことが、協会のためにも大切であると思います。
 国民保護法で一番大事なことは、国が考えていることと自分がどう関わるか、こちらを向かない人をどう向かせるか、即ち県民をどう巻き込んで行くかという議論です。連合会は国防に関わる人の集まりではなく、国民に防衛の重要性を普及する組織です。
 「日本の国を考えるのは当たり前」という風土を耕やしていく、それが連合会の本来の目的ではないでしょうか。何の心配もなく水が飲める、それが平和だと思います。 オピニオン・リーダーをしていたとき、都内のホテルから眼下の風景を見ながら、「黒い森の中にある皇居、官邸、東京の明かり、この何気ない光景が、私たちに大変な安心と平和を与えている。この風景を持続させようとすることが、国防につながるのではないか」と挨拶したことがあります。そこが大切だと思うのです。
「あんたが大好き」「守られて有難う」「なんと楽しい日々」のような日本一短い恋文やキャッチ・コピーを募集して冊子に纏めてもいい。こうすることによって、「普通の会だなあ」と国民に理解されることが大切だと思います。

佐藤 正久(元第7普通科連隊長)

全国防衛協会連合会会報第98号(19.4.23)掲載
 
昭和35年、福島県生。 防大卒(27期) 米国留学、外務省出向 陸幕では広報、日米共同訓練に携わる カンボジア和平プロセスに関与 初代ゴラン高原派遣輸送隊長 初代イラク復興業務支援隊長 第7普通科連隊長(福知山)を歴任 平成19年1月11日勇退

“ヒゲの隊長”として有名であるが、「イラク」に対する「思い」を熱く語る姿には、「心で危険地帯に飛び込んだ男」「真心でイラク復興を先導した日本人」としての自信が溢れていた。
 「イラクの教訓を成功の教訓にしてはいけない」と強調する深層には、イラクの経験を直視して日本の発展と安全のために活かさないと、良い日本の伝統・文化の断絶に繋がりかねないという「思い」が漲っている。
(きき手:本紙編集担当 森 清勇)

イラクは”心(意)”で仕事
Q 先遣隊を率いてイラクへ乗り込まれましたが?   
A 大事なのは「気持ち」です。「郷に入っては郷に従え」で、厳しい気象条件、武器の氾濫しているイラクでは、現地に溶け込む以外に安全に生きる道はありません。
 到着翌日、ムサンナ県知事に挨拶に行きました。当方は自衛官3名のほか外務省、オランダ代表(大隊長)など10名弱で、イラク側は知事をはじめ、県を代表する部族、政党、テクノクラート、宗教界、女性代表など50名ほどでした。
 私は自ら退路を遮断するため、「サマーワを第二の故郷との思いで一生懸命やる」と宣言しました。隊員には「サマーワの人、土地を愛しなさい」と説き続けました。日本人として持 っている一番いいもの、正直さや思いやりなどを前面に出すようにさせました。 「お前の仕事の仕方はサマーワ、イラクを愛していない」というのが、私の指導でした。  
Q 宿営地建設や支援業務について  
A 陸幕や方面総監部の訓練班長として警備訓練をやり、ゲリラ対処や検問所設置で車の仕分けなど研究しました。派遣前には専門調査団員として参加し、オランダ軍の宿営地設計の思想を聞くなどして、出発前に青写真を描いて行きました。
 我々は困っている人(国)を助ける復興支援に行ったわけで、住民の要望に基づき住民の真ん中で支援を行なう現場ではすぐに50人や60人に取り囲まれ、信頼感がなければ危ない状況です。即ち、現地に溶け込み、信頼を得ることが大切でした。行った当初は、なんにもない危険な土漠で野宿したこともありましたが、日本人を信頼していたイラクの人々が守ってくれました。  
 今回は復旧支援でなく、「復興支援」でしたので、イラクの自立が目的です。設計は道路局、灌漑局など相手の部署と調整しながら、施工はイラク人自身の手で進めてもらうように多くのイラク人に参加してもらい、相手と同じ目線に立って仕事を進めました。
Q タフな交渉術はどうして養成されましたか?  
A 使命観や「思い」があれば、誰でもできます。特に挙げると、ゴラン高原初代隊長、即ち、日本の派遣代表としての交渉や、日米共同訓練の調整に携った経験が生きたと思います。   
 日米共同訓練で、相互の訓練目的を達成する調整は並大抵ではありません。  
 こうした経験も然ることながら、「心(意)」が大切です。防大の校友会活動でフィールド・ホッケーをやり、土日なしで、肉体的にはこれ以上ない苦しみと、最後まで諦めない精神・根性ができました。インカレッジ(全日本学生選手権)では粘りで準優勝しました。  
Q 羊を贈呈されましたが?  
A 東京財団シニア・フェローの佐々木良昭氏のアドバイスによるものです。犠牲祭のときに贈呈するのは富める者が貧しい人に配る「喜捨」で、イラクの宗教・文化、即ちイスラム教精神に則ったものです。  
 数は十分ではありませんが、「気持ち」でやった初の人道支援プロジェクトです。目線を同じくするため、社会労働福祉局や女性NGOと連携し、貧しい人や未亡人などへ、市の評議会を通して贈呈しました。
イラクを「成功」の教訓にするな  
Q 出入国ではプライドを傷つけられましたね  
A 防衛庁(当時、市ヶ谷台)では、「国家の代表」として制服で送り出されましたが、成田空港側から制服での出発が受け入れられず、空港へ向かうバスの中で私服に着替える屈辱を味わいました。  
 また、帰国時も制服入国が認められず、クウェートでわざわざスーツを買う隊員もいました。出入国に関しては悲しい思いでした。派遣隊員の出入国に関しては、こうしたプライドを傷つける行為が平然と繰り返されていました。
Q 現地の活動を歪曲する報道もありましたが?  
A 現地の隊員は日本での報道に一喜一憂することなく、淡々とやってきましたが、「正しく報道して欲しい」という思いを強く持ちました。派遣そのものについては色んな見方があっていいと思いますが、「支援している事実」については正しく報道して欲しいですね。
 「思い」を結果として残したいと考えましたが、2年半後の住民意識調査で7割以上が「活動を評価」していましたので嬉しかったですね。報道を正すのは日本にいるOBを含めた人たち以外になく、今後は私などがその役目を担うことになります。  
Q 新たな決意をされたようですが?  
A しばしば「佐藤、この日本人を知っているか? 友達で良くして貰った」と聞かされました。  
 20数年前に、日本の企業戦士たち(イラン・イラク戦争で撤退)が築いた「信頼」が未だに残っていたのです。日本の素晴らしさ、日本人の凄さをまざまざと感じました。  
 世界第2位の経済大国である日本に対する彼らの期待感と要求は果てしなく高く、自衛隊の能力とはギャップがあり過ぎました。最初の1ヵ月半は宿営地建設が主であったため、反対者からは「帰ってもらって結構だ」と言われました。
 しかし、先輩たちが「信頼関係」を残していたお陰で、多くのイラク人は「日本は必ずやってくれる」と、我慢して待ってくれました。また、先輩たちが与えた影響か、「明日のイラクを背負う」のは俺たちだという若者が大勢いました。
 こうしたイラクでの経験が、「日本を守り」「いい日本を次の世代に繋ぐのは我々だ」という思いを強くし、また、国際活動が本来任務になり、「現場を知る者」が国政の場で「実相を伝え」、「本物の議論」をして法律をつくる必要があることを痛感しました。
 イラクの教訓を「成功の教訓」にしてはなりません。次の国際活動任務に備え、イラクの教訓を洗い出し、改善すべき分野にメスを入れることが必要です。私もその一助となるべく、政治の場で本当のことを発言し議論していく所存です。
 それが私の国に対する「義」であり、現場を多く体験させて頂いた私の「定め」であると思います。    
 美しい国、素晴らしい日本を次の世代に繋ぐため、全力を尽くします。

町田 錦一郎(群馬県防衛協会会長)

全国防衛協会連合会会報第97号(19.1.19)掲載
町田錦一郎会長
 
昭和18年、群馬県前橋市生まれ。
54年、町田産業を引き継ぎ、
平成2年マチダコーポレーション に社名変更。 18年4月、群馬県防衛協会会長に就任。
同11月、藍綬褒章受賞

赤城山、榛名山を遠望する北関東平野の一角に「マチダ平和資料館」があった。    
中国の反日宣伝や一般の戦争経緯、惨禍などの展示ではなく、明治から昭和に至る激動の中で、名もない兵士や銃後の国民に焦点を当て、世界史の中での日本の近代史を見せようとする唯一無比の個人経営、無料、会長自身の説明による資料館である。    
「日本精神(武士道)の復活」を強調され、イラクに派遣された自衛隊にその片鱗が継承されていることにかすかな安堵感を抱いておられた。
(きき手:本紙編集担当 森 清勇)

”美しい日本精神”育てる
自衛官に誇りをもたせよう
 
Q 自衛隊との関わりからお聞かせ下さい。  
A 昭和40年代初め、群馬地連部長との接触で感化され、その後東部方面隊のオピニオンリーダーとなって観閲式などを見せてもらいました。    
 かつての観閲式は神宮外苑で、防大生を先頭に堂々とやっていました。  
 銀座を戦車がパレードしたこともあります。国民感情や交通事情、更には兵器装備の大型化などから朝霞で行われるようになったのでしょうが、米仏などが象徴的な処で行っているように、日本の象徴となる、例えば皇居前などで国民の目に見えるようにするべきだと思います。  
 そうすることによって自衛官も誇りをもてます。  
Q 自衛隊協力会から防衛協会へ変更されましたが?  
A オピニオンリーダーになった頃は自衛隊が地域社会で認められていなかった。地域が自衛隊を理解し、応援する積み重ねが隊員に誇りをもたせます。  
 また、防衛は自衛隊だけで出来るものではなく、地域が一緒に協力して達成できます。  
 そうした観点から、自衛隊と地域が対等の立場で防衛と経済を話し合う場として25年前に厩(きゅう)衛(えい)会を立ち上げました。日本中どこにもない会合だと思います。  
 最近、自衛隊が武器をもって演習場へ行く途中、市民の目に触れただけで社会問題になりました。訓練に武器を携行することは当たり前のことですが、まだ、当たり前と受け止められない国民もいます。     
 国を直接守るのは自衛隊ですが、その活動に基盤を与えるのは県(国)民の理解と支持です。より広い立場から、日本の安全を考えるようにしたい為の変更です。
名もない兵士、銃後が国を支えた
Q マチダ平和資料館を始められた動機は?  
A 父が輜重(しちょう)隊にいて、幾らかの資料があり関心もあって、18歳のころから少しづつ集め始めました。昭和53年、日本青年会議所(JC)議長として豪州に出張した時、首都キャンベルで見たウォーメモリアルミュージアムが 大きなヒントになりました。  
 豪州は建国以来、日本としか戦っていません。国会議事堂の対面に建てた記念館には、シドニー湾に突入した特別攻撃隊の特殊潜航艇などを展示して、日本の勇気を称えていました。私が訪ねたとき、80歳を越したと思われるおじいちゃんが孫に“千人針”を説明していました。  
 その時、私は「これだ」と思いました。杯など身近なものの収集から始めました。杯は出征軍人が所属中隊の名前を入れて無事帰還したお礼に配りましたので集めるのは容易でしたが、兵隊さんたちが普段に使用した帽子や靴等は、  戦後再使用され余り見つかりません。     
 先人針には「死線(4銭)を超えて帰って来て欲しい」という願いを込めて5銭貨を縫い付けました。こうした資料を纏めて、会社創立50周年の記念として資料館にしました。  
Q 平和資料館だけにしかない特長は?   
A 第一は、対戦相手であった米英等の装備や書籍の展示で、原爆投下を報じた米紙もあります。   
 第二は、米国人の考え方や技術力をキャデラックで分かるようにした展示、第三は、外地に出征した従軍看護婦の資料です。   
 従軍看護婦の帽子の内側には、頭に合うようにカーブした櫛が縫いこまれ、身だしなみと共に、凛とした姿を見せることで傷病者を元気付けようとしたのでしょう。   
 「その時歴史が動いた」の松平定知氏GMの副社長、自衛隊の高級幹部、国会議員、県知事など内外の著名人も多数見えました。  
 近衛忠煇日赤社長も、全国献血大会に來県された折ご覧頂き、その日の皇太子殿下とのご昼食では、当資料館の従軍看護婦の話ばかりだったそうです。
Q 資料館から得られる教訓は多いですね  
A 一つは家族問題です。兵士も家族も一族郎党のため、郷土のためという意識が強かったので、村を挙げてのぼり旗で送り出しました。お互いに家族愛、郷土愛でしっかりと結ばれていました。  
 二つ目は教育問題。教育勅語は天皇が「朕(ちん)」から「象徴」にお変わりになられたことを除けば今でも立派に通用します。  
 三つ目は「輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く」と戯れ歌にされ、馬鹿にされた後方の重要性です。  
 敵対国のものを展示しているのは、後方兵站(へいたん)支えた国力や技術力などを容易に比較・明示したかったからです。当時の指導者たちは国力の差  が分かっていましたので、正確に発表し国民に一層の努力を呼びかけたりもしています。こうした現実が資料から読み取れます。  
Q キャデラックが所狭しと並んでいますが?  
A 米国は移民の国で、艱難辛苦をなめつつ努力し、キャデラックを所有することが成功の証でした。キャデラックには米国人の考え方、技術力、工業力が反映されています。   
 単なるコレクションではなく、時代背景を理解しやすいように1925~87年製までの50台を展示しています。本場の米国よりも多くあるそうで、先日も展示用にGM社から借りに来ました。マッカーサーは日本人の魂を抜くために戦前教育を否定しましたが、元帥が愛用した車も展示しています。  
 総じて、当資料館は「戦前教育の良い所は見直そう」と訴えるようにしております。
マチダ平和資料館
同左 展示

平成18年

●096号 18.10.23 ”国家衰退”に強烈な危機感  西本 勝子(衆議院議員)

西本 勝子(衆議院議員)

全国防衛協会連合会会報第96号(18.10.23)掲載
西本勝子議員
 
昭和二十五年四月、高知県高岡郡日高村生まれ、村議3期、2005年総選挙自民党比例四国ブロックから当選、高知県防衛協会滝石園子女性部会長の下で活動

議員会館での1時間インタビューして感じたことは、国家の安全と家族愛なくしては、日本の国家が衰退してしまうのではないか、という強烈な危機感の持ち主ということであった。   
靖国神社境内で8月15日に開催された「英霊にこたえる会・日本会議主催の戦没者追悼中央国民集会」に、自民党新人議員の「伝統と創造の会」会員として参加。
(聞き手:本紙編集担当 森 清勇)

”国家衰退”に強烈な危機感
Q 村議から国会議員になられてどう思われますか。  
A 地方の声を聞いて実現していくのが国政だと思います。いま、村議時代に抱いていた問題を国会で取り上げることに喜びを感じています。   
 ただ、国の防衛については地方の声も大切ですが、国政レベルで主導していくものです。村議のとき「男の俺がそれほど考えていないのに、何で女の勝ちゃんがそれほど思うがぜよ」とよく言われました。   
 その都度「あんた男やろ、もっと日本を守る気持ちを持たんといかん」と言い返したものです。   
 周辺国からミサイル発射されるなど、問題が起きてから対応するようでは遅すぎます。常日頃から防衛について考えていないと完全に手遅れになります。  
 予算を増額し、防衛力を整備するだけで、すぐに軍事力増強などと一部のマスコミが大騒ぎし、国民の中にも信じてしまう人が多くいますが、日本憲法は 戦争を放棄しているので、こちらからすることはありません。  だから、日本はどうやって守られているかを、国民一人ひとりが知ることが 切です。
国防は国民の義務
Q 防衛協会に入られた動機と、入会されての感想は如何でしょうか。  
A 本当に些細なことからです。国土を守るのは国民の義務であるが、実際に防衛の任につくのは自衛隊の方々です。  
 国民に代わって活動している自衛隊を支えている防衛協会に、少しでも協力できれば、義務の一端が果たせると思いました。
 国民として、少なくとも成人になれば、我が国の防衛をどうするか考えなければならない。防衛力整備は、憲法で禁じられている戦争をするためではないが、戦争することのように違えて受け取られることが多い。  
 このような間違った認識が国民の間にあることから、啓発の必要性を痛感しています。    
 また、自衛隊は訓練等に各種の制約が多いということを知り、実行動に差し支えるのではないかと危惧しています。  
 特に、災害派遣活動は一刻を争う場合がありますので、迅速に対応できるように、可能な限り制約を除去すべきだと思います。  
 災害が起きてからの障害を除去しているようでは助かる人命も救えません。  
 私共は自衛隊の活動に対する条件整備には力を入れていきたいと考えています。
家族愛の大切さ
Q 教育と少子化問題については大きな関心をお持ちですね。  
A 国の力はある程度の人口があってこそ発揮できます。少子化は国家衰退、滅亡への道ではないかと危惧しています。  
 少子化問題をお金で解決しようとしているように見受けられますが、家族愛、郷土愛のような精神的なものが人間の心に芽生えてこないと解決できません。   
 家族愛とは夫婦愛、兄弟愛、親子愛など素晴らしい愛が育つことです。   
 他人に対する愛が芽生えないと絶対に良い政策は生まれてこないと思いま す。     
 マッカーサー元帥は日本人の家族愛を崩壊させなければ、再び団結して戦争につながる危険性があると見ていました。   
 彼の日本統治の重点施策画実施され、結果は今日見るように、子供が親を平気で殺し、また親がわが子を殺すような現象が起きています。    
 家族の絆が精神構造の一番大切なものです。家族愛があれば、教育がしっかりするし、郷土愛へもつながります。その延長線上に国家を大切にする気持ちが芽生えてきます。      
 戦争放棄は明文化して、しっかり守る必要がありますが、時代の大きな変化に見合うように憲法と教育基本法は改正する必要があります。  
Q 予算委員会で、「先輩たちが熱く万機を論じた舞台で悠久の歴史をつくる一節を任され」と切り出しておられました。このことばを聞きますと、坂本竜馬の「船中八策」を思い出します。尊敬する人物や座右の銘についてお聞かせください。  
A 郷土が生んだ坂本竜馬は雄大な考えをもった人で、誇りに思います。京都の大谷本廟に父母の分骨があり、年2回お参りする折、竜馬と中岡慎太郎の墓前にも詣でて、燃え滾る熱意をお分け下さい、とお願いしているんですよ。
 私は自分の目で確かめる主義なので、歴史上の人物というよりも父(村議でした)の姿を見てきました。  
 他人のためにはお金を惜しまずに全精力を尽くす父の井戸塀式の献身を尊敬しています。  
 座右の銘は「克己心」です。克己は“かつこ”とも読め、勝子にも通じます。   
 政治とは机上の空論ではなく、村や町など地方の要求が実現されることだと思います。永田町にいては見えないことが村議であった私には見え、それを粘り強く実現していくことも克己心だと思います。  
Q イラクから陸上自衛隊が撤収しました。  
A イラク派遣では、第10次隊も無事帰国いたしましたが、空自はまだ活動しています。任務を終えて全員が帰ってきた時、国民の多くが祝福してくれると思います。  
 湾岸戦争では戦争終結後に、130億ドルのお金を出しましたが、クウェートだけでなく、国際社会からも評価されませんでした。  
 今回のイラクでは憲法の範囲内で日本は精一杯のことをやり、自衛隊の献身的な活動は、サマーワの人々の信頼を得、イラク全体からも評価されています。
一層の活躍期待
Q 国家百年の計と言いますが、いまは何を計すべきでしょうか
A 「三つ子の魂百まで」と言います。家族愛が全ての原点で郷土愛・国家愛へとつながっていきます。家族愛を教え、育てる環境づくりを改正する憲法や、教育基本法で奨められるようにしたいですね。   
 防衛については、国民一人ひとりが、わが国はどんな国かを認識し、美しい日本を守るにはどうすればよいか真剣に考えて欲しいと思います。  
Q 最後に、防衛協会への注文をお聞かせ下さい。。  
A 防衛に対する国民意識が低く、マイナス要因が多かった防衛庁・自衛隊を支援し、また国民の目を向け、防衛意識が高揚するように活躍されてきた意義は大きいと思います。   
 これからもますます輪を広げ、一層大きな組織となられて活動してもらいたいし、私も尽力したいと思います。
(8月3日)
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