栃木県防衛協会
令和3年会報紙掲載
栃木県防衛協会 防衛協会会報第156号(3.10.1)掲載
日本の防衛の一翼を担う
山縣農場内の建築物が
国の登録有形文化財に!
栃木県防衛協会
「山縣有朋記念館別館」を国の登録有形文化財に答申
7月16日、国の文化審議会において、栃木県矢板市の山縣農場に所在の「山縣有朋記念館別館」を登録有形文化財にするよう文部科学大臣に答申されました。
この「山縣有朋記念館別館」というのは、明治時代の数少ない洋風木造建築物の一つとして、栃木県指定文化財に登録されている「山縣有朋記念館(旧山縣有朋別邸)」に隣接して昭和2年頃に建築されたものです。
山縣農場の由来
山縣農場は、明治時代の135年前に、山縣有朋が栃木県伊佐野(現栃木県矢板市伊佐野)の官有地の払い下げで得た、天然林約150町歩、草山600余町歩の山野を、移住者を受け入れて開墾と植林をしたことから始まりました。有朋が考えた『農は国家経済の基本』の理念のもと、自作農を育てる方針は有朋亡き後も生き続け、田畑の多くを小作人に譲渡済で山林主体の経営となっていた山縣農場は、第二次世界大戦後の農地改革の影響をほとんど受けることなく、森林を整備しながら継続しています。その中心的存在であった山縣有朋記念館別館を、山縣有朋氏から5代目にあたる山縣有德氏が引き継ぎ現在に至っています。
山縣有德氏は、現在、栃木県防衛協会の会計幹事としてご活躍されています。
MIG―25事件の教訓から山縣農場に防衛マイクロ回線の「八方無線中継所」を設置することに
有德氏が栃木県防衛協会にかかわるようになったのは、昭和51年(1976年)9月6日、ソビエト連邦(当時)のMIG―25戦闘機が、日本の防空網をかいくぐって領空を侵犯し、函館空港に強行着陸したことが端緒となっています。
このMIG―25事件発生時、新幹線車中の防衛庁長官(当時)への報告まで約1時間半を要したこと等、事件発生当初における庁内の連絡体制の不備が表面化しました。当時は、自衛隊の大部分の通信回線は電電公社(現NTT)の通信回線に依存しており、通信回線の所要が急増する緊急時において所要量の迅速な確保が困難であり、柔軟な運用ができず、また、抗たん性に欠ける面がありました。
この事件を契機に、防衛庁(当時)は、防衛の中枢的機能ともいうべき指揮通信の充実のため、昭和52年度以来、自衛隊の自前の統合骨幹通信網である防衛マイクロ回線の整備に努めてきました。これの一環として、昭和53年防衛庁(当時)から依頼を受け、「八方無線中継所」を山縣農場内の最高標高点の山林内に設置し、現在に至っております。
このように、防衛省に「八方無線中継所」用の土地を貸している繋がりが、山縣有德氏の栃木県防衛協会入会に結びついたものです。
(資料提供:公益財団法人山縣有朋記念館)