一筆防衛論
令和7年
常任理事 金古 真一 防衛協会会報第172号(7.10.1)掲載
さらなる抑止力の向上に向けて
昨年6月、中国機が九州西方男女群島の領空を侵犯しました。中国軍用機による初の領空侵犯であり、また、9月には礼文島領空を侵犯したロシア哨戒機に対しては、航空自衛隊の戦闘機がフレアと呼ばれる熱と光を放つ装置を警告に用いたと報じられ、さらに本年5月には、中国海警船から発艦したヘリが尖閣諸島の領空を侵犯し、領空保全への関心、懸念を抱かれている方も多いと思います。
1958年以降、防衛省の公表によれば、2025年3月までに計48件の領空侵犯が生起しています。なかでも、1987年、ソ連機は沖縄本島、徳之島及び沖永良部島の領空及び領土上空を侵犯し、戦闘機による初めての警告射撃が行われました。日本政府による抗議に対して、ソ連政府は悪天候と計器故障による事故とし、搭乗員の処分を公表しました。当日は晴天であったにもかかわらず、領空侵犯の原因を「悪天候と計器故障」とする対応には強い疑念と不信感を抱き、また、82年には大韓航空機がソ連に撃墜される等、我が国周辺上空が平穏でないことを実感された方も多いと思います。
対領空侵犯措置は公共の秩序を維持するための警察行動とされ、陸上や海上とは異なり、この措置を実施できる能力を有するのは自衛隊に限られることから、一義的には航空自衛隊がその任務を担っています。措置の対象には軍用機に限らず民間機も含まれ、侵犯の理由は天候回避、故障、過誤と言った故意に当たらないケースもあり、慎重な対応が求められています。一方で領海とは異なり、領空には完全かつ排他的な主権が認められており、領空侵犯機は軍民を問わず着陸等の指示に従うものとされています。前述の事案から約40年が経過した現在、政府は、領空侵犯機が仮に指示に従わず実力をもって抵抗する、あるいは領空領土内で国民の生命及び財産に大きな被害を加える場合、有人かつ軍用の航空機を念頭に正当防衛または緊急避難の要件に該当する場合の侵犯機に対する武器の使用、加えて無人の航空機については、武器の使用を行っても直接に人に危害が及ぶことはなく、保護すべき法益のために必要と認める場合には、正当防衛または緊急避難に該当しなくとも武器の使用は許され、対領空侵犯措置による対処は可能としています。しかし、このような状況は、明らかな意図を持った国の軍用機による不法行為を超えた武力行使が生起した状況であり、また、法理上は可能であるとしても、地上や海上とは異なり、極めて限られた時間の中で状況の変化に応じた判断、指示及び行動が必要であることから、平時の警察行動である対領空侵犯措置による対処の限界はこれまでも指摘されています。
2015年、我が国及び国際社会の平和及び安全のための切れ目のない体制の整備を目的とした武力事態対処法を始めとする関係法令が制定・改正されています。しかし、多くの専門家や民間シンクタンクは、抑止力の強化には装備の充実に加え、行動の実効性を担保する法令と運用メカニズムの検証が急務と指摘しています。その背景には、純然たる平時でも有事でもない事態、いわゆるグレーゾーン事態が生起する蓋然性が高く、さらに軍事と非軍事の境界を意図的に曖昧にするハイブリッド戦では、外形上、「武力の行使」と明確に認定するのが困難であり、平時と有事を区分し、情勢の変化に応じた事態認定を前提とする既存の制度と現状との乖離が広がっているとの懸念を抱かざるを得ないことにあります。
防衛力の抜本的強化では、スタンドオフ能力向上等に注目が集まっている感は否めません、抑止力を実効的に向上させるためにも、政府のみならず、政治サイドの主導で現実を直視した議論、施策が講じられることを期待して止みません。
(元航空支援集団司令官)







